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台地の上の寂れた商店街《赤羽・十条凸凹紀行》⑤

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赤羽の駅からしばらく南下して急坂を登ったら、驚いたことに台地上には、古くからの商店街があった

 

その商店街は、あちこちに更地や廃業してしまった店舗が目立つが、まだ営業している店舗も見られた。しかし、もっとも驚いたのは、裏路地に戦前の出桁造りの建物があったことである

 

 

調べてみると、この台地上には大正時代に、陸軍被服本厰倉庫が移転してきたことによって、町が拓けたようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

台地上には、稜線に沿って曲がりくねった道が続いており、その通りが商店街になっていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すでに廃業してしまった店舗が大多数を占めて、いわゆるシャッター街になってはいるが、まだ営業している店も残っていた

 

廃業してしまった店は、戦後型の看板建築が多く、おそらく昭和中期ごろには、けっこう賑やかな商店街だったような雰囲気であるが、現在の寂れっぷりは、川崎市の古市場銀座とよく似ている

 

 

 

 

 

 

 

 

古市場銀座と違うのは、こちらは戦前から続く商店街らしく、あちこちに、かなり古い建物が残っていることだろう

 

この物件は、あまりのもじゃっぷりで本体が見えなくなってしまっているが、多摩地域でよく見られる銅板葺きの屋根を持った平屋で、おそらく戦前、でなくとも戦後の早い時期に建てられたものだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

「田那辺工務店」は、戦後型のようだが、ピタリとくっついている「加藤」とガラス戸に記されている隣の看板建築は、木製のベランダも残っていて、かなり古そうだ

 

 

 

 

 

 

 

 

商店街から隣の板橋区の志村、小豆沢方面を臨む。標高20メートルといったところか?

 

これだけ高い場所にある商店街というのも珍しいが、交通機関から完全に見放されたロケーションのせいなのか、あまりひと通りもなく、しらけた空気が漂っていた

 

 

 

 

 

 

 

 

曲がりくねった商店街をしばらくすすむと、右手にまたしても急坂が見えてきた(写真は歩いて来た方向を振り返って撮影)

 

 

 

 

 

 

 

 

その坂は「蛇坂」という名称のようだ。ここにも北区が標注を立てている

 

標注の説明文によると……この坂は蛇のようにくねっているから蛇坂と呼ばれるようになった。坂の下の谷戸は北谷と言われ、湧水の池があり釣り堀になっていたそうだ

 

 

秋には空いっぱいのギンヤンマが飛んでいたというが、先ほど見下ろした風景からは、まったく想像できない。あれではギンヤンマどころか、シオカラトンボがせいぜいだろう

 

蛇坂の脇には

 

 

 

 

 

 

 

かなり古そうな建物の「倉上米店」という精米店があった。街灯についていた看板から、ここが「三岩通り商店会」という商店街であることが判明した

 

しかし、この三岩通り商店街は……

 

 

 

 

 

 

 

 

区画整理で、先ほどの商店街より道幅は広くなっているが、開いている店がほとんど見当たらなかった

 

蛇坂から先は、区画整理されてしまったために、それまで曲がりくねっていた道が、いきなり真っ直ぐにされているため、著しく風情が削がれた雰囲気にかわっていた

 

 

Googleで検索してみると、どうやらこの並びに、ほんの数年前まで、出桁造りの見事な建物の書店があったようだが、残念ながら取り壊されてマンションにされてしまったようだファッキン!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、台地の稜線を通っていることはかわらず、商店街の右側は常に急坂。という、坂道好きなら大喜びするロケーションが続いている

 

きれいな脚の女の子が自転車で通りかかったが、歩きスマホならぬ自転車スマホで走行していた。マジで危ないからやめようね

 

 

珍しく開いている店はクリーニング屋で、軒先テントには「cleaning & speed」ではなく「cleaning & スピード」と表記されている。なぜスピードだけカタカナなのかその理由がわからない

 

などと、どうでもいいことで悩んでいたら……

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに速そうな“ハイスピードクリーニングの「うえむら」という店があった。しかし、こちらは廃業してしまったような雰囲気で、スピード競争に負けたのだろうか?

 

その向かい側には……

 

 

 

 

 

 

 

 

1970年代風のモダン(つまり古臭い)な団地のような集合住宅を見つけた

 

このジャンルは、けっこう好物なので、見かけると反射的に撮影してしまうが、絵的にあまりインパクトがなく、たいていボツ写真にしてしまうのだが、たまには載せてみる

 

 

そういえば以前、書店にて昭和の団地ばかり撮影した写真集を見たことがあるが、ということは、一定の団地マニアが存在するということなのだが、残念ながら周りにはひとりもいない

 

 

などという思考にとらわれていたら、そのとき何かの視線を感じたので、ふと脇道方向の足元に目をやると

 

 

 

 

 

 

 

 

なんだ、君だったのか

 

いつものように、なでなでしようと近づいたら、あっという間に逃走されてしまったファッキンシット!

 

 

しかし、この猫が逃走した方向を見ると、なにやら商店街の続きのようだったので、ふらふらとそちらに足を向けた

 

この偶然が、意外な物件との出合いになるなどとは、このとき僕はまだ思ってもみなかったのである

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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廃墟の商店街から水車の坂《赤羽・十条凸凹紀行》⑥

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陸軍被服本厰倉庫が移転してきたことによって、赤羽台地は商店街として発展してきたようだ。通常このような台地の上は、あまり商業地としては適していないので、これはかなり例外的なことであろう

 

前回は、その台地の稜線に沿って延びている「三岩通り商店街」を見て歩いたが、北区立稲付中学校の横の横道で見つけた猫に誘われるように、その横道に入ってみると……

 

 

 

 

 

 

 

 

ほとんどひと通りもない閑散とした通りに、城北信用金庫の建物があり、そのことからも昔は、かなり栄えていたことが見てとれる

 

信用金庫の奥には、なにやらボロボロに破れた軒先テントの建物があったので、近くまで行ってみると……

 

 

 

 

 

 

 

 

ボロボロのテントの下に「カラーテレビ」の文字が読みとれたので、どうやら電気店だったようだ

 

しかし、この現状はどう見ても廃屋にしか見えず、あたりには陰惨な雰囲気が漂っている。文字通りのゴーストタウンである

 

 

ここまで廃屋になった店ばかり並んでいる光景を目撃したのは、飯能と四ツ木に次いで3例目で、首都圏では珍しいパターンであろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あたりを散策してみると、このあたりは稜線沿いのメインストリートの商店街とつながった商圏だったようで、あちこちに昔は商店街だったような痕跡が残っていた

 

しかし、そのどれもが廃墟化しており、商店街が壊滅してから、かなり長い年月が経過しているように見える

 

 

小学校や中学校の門前には、たいてい文具店や書店があったりするが、Googleマップを開くと、まだ文具店の表記がされていたが、ご覧のように、どう見ても営業しているようには思えない

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、商店街がすべて廃墟になったわけではなく、看板建築の廃屋をはさんで、クリーニング店と中華料理屋がまだ営業していた

 

メインストリートにも2軒クリーニング店があったが、この業種も床屋と同様にサバイバル率が高いようだ

 

 

そういえば、かつてのアメリカ人は基本的に自分で洗濯をせず、なんでもクリーニング屋に出していたように思われる。というのも、古着のジーンズやニット製品を見ると、明らかにドライクリーニングによる縮みやダメージを受けたものが多いからだ

 

そもそもジーンズをドライクリーニングに出す神経がよくわからない。アメリカには面倒くさがり屋さんが多いようだ

 

 

逆に僕などはクリーニングに出すのが面倒なので、120番手以上のシクテスなどの超高級素材のシャツも自分で洗っている。たたんでネットに入れれば、とくにダメージは受けない

 

 

 

話が横道に逸れたので戻す。ほかにもなにかないかと探していたら……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うーん、素晴らしい! なんともよい雰囲気の「はるきパン」という店を見つけた

 

看板には、和菓子、洋菓子と記され、かわいらしいソフトクリームのイラストが添えられており、廃屋ばかり見てダウナーになった気分が、少し上向きに変わった

 

 

これでだいたい商店街は見終えたので、赤羽台地の坂道を見に行くことにした。目的地は、Googleマップで見つけて、この散策をしようと思ったきっかけになった「水車の坂」である

 

商店街から南方向に歩いてゆくと……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新しい建て売り住宅がズラリと並ぶ一角に、驚いたことに、文化住宅が2棟残っていた

 

都心部周辺では絶滅危惧種である、このような建物が残っているということからも、赤羽台地が古くからの町であったことが読みとれる

 

 

この文化住宅のすぐ脇に、目当ての水車の坂があった

 

 

 

 

 

 

 

 

角度が急すぎるのか、坂は階段状になっていた。崖っぷちではよくあるパターンだ

 

はるか遠くに、谷筋の向こう側の高台が見えている。この谷間を作ったのが、隅田川水系に属する石神井川の支流、稲付川(北耕地川)である

 

 

斜面が急角度のため、階段はこの写真の少し先の部分で、カクッと左に曲がっていた。曲がった先を下から写真に撮ると

 

 

 

 

 

 

 

 

かなりの急斜面であることが、はっきりとわかる

 

せっかく谷筋に降りてきたのだから、稲付川が流れていたところまで行ってみた。すると……

 

 

 

 

 

 

 

 

いかにも昔は川だったようなジメジメとした谷底感のある狭い道に出た

 

川筋だっただけに、古くから集落があったようで、古い木造家屋が建っていたのはよいとして、その川筋だった道には

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜか、やたらと猫がたむろしていた

 

あたりを見回してみると、少なくとも5匹の猫が目に入った。猫の楽園である

 

 

ということで、次回はこの猫だらけの川筋を歩く

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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猫の谷から稲付川暗渠へ《赤羽・十条凸凹紀行》⑦

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赤羽台地から水車の坂という急斜面の階段下りたところには、かつて石神井川の支流、稲付川が流れていた。あたりは谷戸の一面に水田がひろがり、おそらく斜面は樹木で覆われていたことだろう

 

しかし、現在は完全に住宅街になっており、田園地帯だった面影は、なにも残っていない

 

 

ただし僕のような暗渠を愛好しているものならば、その場の地形や雰囲気から、昔の風景が頭のなかにありあり浮かぶ

 

このような両側が斜面という谷戸地形で、そのもっとも低いところに、やけに曲がった細い道路(あるいは隙間)があった場合、それは暗渠である確率が高い

 

 

通常であれば、この“いかにも暗渠”という雰囲気に、気分が上がるのであるが、このときばかりは、僕はすっかり別のものに心をとらわれていた

 

別のものとは……

 

 

 

 

 

 

 

 

もちろん猫である

 

暗渠に猫は、定番の組み合わせではあるが、この場所は猫の濃度がきわめて高い場所だったのだ

 

ざっと見渡しただけで、白黒、黒、茶トラなど5匹の猫が目に入り、しかもどの猫も逃走する気配がない

 

 

やった。猫パラダイスだ!

 

 

 

 

 

 

 

 

白黒が「なにか?」という目で見つめてきた

 

思わずなでなでしたい誘惑に駆られるが、そういうときにかぎって、普段は誰も通らなそうな道なのに、子連れのお母さんとか、サラリーマン風のふたり連れとか、近所のおばさんとか、やたらと通行人がやってくる

 

 

せめてバシバシ写真を撮ろうとするが、ファッキンなクソガ……もとい、かわいいお子さまが、猫に突進したので、猫たちは、蜘蛛の子を散らすように散ってしまった

 

「ゴルァ、クソガキ! 猫が逃げたやないけ! しばいたろか!」と、心のなかで毒づくが、お母さんがとても美人だったので、かわいいお子さんですね。と、ばかりに媚びを売る自分が情けない

 

 

 

 

 

 

 

 

チッ、と内心舌打ちしながら、なんとなく気になる細い坂道に向かうと、僕の目の前を、またしても猫が横切っていった。いったいこの一角には、どれぐらい猫がいるのだろう

 

という話はともかく、この細い坂道には、またしても北区が立てた標柱があり、それによるとこの坂道は「游鯉園の坂」と呼ばれているようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

坂の途中から稲付川方面を見下ろす。游鯉園とは、大正時代に建てられ、戦争前までこの場所にあった川魚料理を食べさせる料理屋だそうだ

 

住宅に埋めつくされた現在の姿からは想像もつかないが、そのころは深い樹木を後ろに控えた田園地帯に、稲付川のせせらぎが……という、さぞ風流な店だったにちがいない

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、その稲付川が流れていた場所は、川跡をそのまま残したこのような湾曲した道に、今も容易に往時の様子を観てとることができる

 

川は、赤羽台地の下を流れていたので、道路の両側が斜面になっており、谷底感が漂う閉塞された空間が、暗渠好きの心をくすぐる小路である

 

 

暗渠気分に浸りながら、しばらく歩くと信じられないような坂、というか階段があった

 

 

 

 

 

 

 

 

この階段、角度も急だが、注目すべきはその形状である

 

この写真は、画像にパース(遠近法)がついているから遠方が狭くなっているのではない。もちろん、撮影した角度による視覚効果のマジックでもない

 

 

その証拠に、この階段を登ってゆくと……

 

 

 

 

 

 

 

 

登るにつれて急速に階段の幅が狭くなり、最初は1.2メートルほどあった階段の幅が、ここでは40センチほどしかない

 

そして、坂を登りきるころには……

 

 

 

 

 

 

 

 

もはや30センチを切り、横にならないと通過できないような幅しかなかった

 

首都圏の階段をすべて見たわけではないが、この階段ほど登り口とその出口に差がある階段は、間違いなく存在しないだろう

 

 

階段のおかげで、クソガ……いや、かわいいお子さまに邪魔されて、猫をなでなでできなかった欲求不満な気分も解消され、この先は気持ちよく暗渠をすすんだ

 

 

 

 

 

 

 

 

稲付川は、相変わらず赤羽台地の下をぐねぐねと蛇行しながら続く

 

川沿いには古くから住民が住んでいたようで、時おり古民家が残っていて、歩いていて楽しい散策路だ。ただし、楽しむには暗渠とか古民家が好きであることが必須条件であるが……

 

 

 

 

 

 

 

 

しばらくゆくと、元はピンクだったらしい凄いもじゃハウスがあった

 

もじゃハウスの後ろは、急峻な崖になっている。比較的新しい建物なので、稲付川が埋め立てられてしまったあとに建てられた建物だろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その先には、川がまだ流れていたいたころからありそうな古民家があった。こちらもすでに廃屋のようだ 

 

ドアだけ白く塗装されているのと、窓の二重のばってん型の桟がカッコいい。剥げかかったペンキがいい味を出した物件である

 

 

この先で、稲付川はカクッと左に曲がっていて、曲がった先には……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような謎のデッドスペースがあった

 

以前はなにか建物でもあったような雰囲気であるが、完全に封鎖され放置されていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その先もぐねぐね曲がりながら、川跡は続く

 

相変わらず進行方向に向かって左側に赤羽台地があるので、常に左側が高くなっており、閉塞感があって妙に落ち着く道である

 

 

下の写真の擁壁に注目。ブロック塀の下側が、昭和初期から30年代にかけて、建築資材や川の護岸によく使用された大谷石で、しかもそれにコンクリート製の構造物がくっついていて、そこに排水菅がつながっている

 

これは明らかに、稲付川が流れていたころの護岸のなんらかの痕跡であろう

 

 

 

 

 

 

 

 

両側が斜面の閉塞空間は、その先も続くが、やがてその終点が見えてきた

 

 

 

 

 

 

 

 

この突き当たりで、暗渠歩道は終わりを告げる

 

階段を上った先には、だだっ広い環七が通っていて、もちろん環七から先にも稲付川の跡は続くが、そろそろ陽も傾いてきたことだし、暗渠の追跡は切り上げて、左に曲がって十条の駅に向かうことにした

 

 

 

《赤羽・十条凸凹紀行》おしまい

 

 

散策の途中なのに、なぜ「おしまい」かといえば、ここから先は「赤羽」も「凸凹」も出てこないからである。つまり、タイトルがそのままだと内容に偽りあり、ということになってしまう

 

 

ということでこの記事は、いったん終えて次回は、北区最大の買い物天国である十条のアーケード街を散策する

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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たどり着けば買い物天国《十条銀座アーケード街》上

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稲付川を埋め立てた暗渠道は、環七にぶつかって終わりを告げた

 

ぶつかった道路と川跡に、えらく高低差があるのは、川が低いところを流れるという、当然の摂理もあるが、どちらかというと、このような大規模な道路は、大抵、盛り土されていることによる

 

 

環七から先も石神井川に合流するまで、稲付川の跡地は続くが、暗渠は当初の目的ではないので、十条駅に向かって歩きだした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここでも大通りを、あとから無理やり直線的に造ったことによって出来上がる、東京名物・鋭角交差点と、それによってなかば必然的に発生するトンガリ物件があった

 

このトンガリ文具店などは、その造形美が、かなりアートな領域に踏み込んでいる。背後まで回りこんだ軒先テントが珍しい

 

 

道路をはさんだ反対側には……

 

 

 

 

 

 

 

 

すっかり開発された大通り沿いには珍しい、昭和40年代ちっくな看板建築が残っていた

 

かすれたオレンジがよい風情の「東芝 照明配線器具」と、今ではすっかり見かけなくなった筆記体の「TOSHIBA」マークが、レイドバック感たっぷりである

 

 

この看板建築からしばらくゆくと、進行方向の左手に、先ほどのような鋭角交差点が見えてくる。その交差点からはじまるのが

 

 

 

 

 

 

 

 

「十条仲通り商店街」だ。仲通りの「仲」が、一般的な「中」ではないのは、おそらくこのあたりの住所が十条仲原であることに由来するものと思われる

 

残念ながら、この場所のトンガった部分は、更地なので大好物のトンガリ物件は存在しなかった

 

 

このいたって地味な始まり方をする十条仲通りは……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

出だしは、いたって地味なのに、徐々にひと通りが増えて、賑やかな商店街にかわる

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの商店街も隣駅の赤羽と同じように、飲み屋はあるが、あちらのようなフリーダムでアナーキーな空気はカケラもなく、どこの町にもあるごく普通の飲み屋が多い

 

このことは、隣同士の赤羽と十条の商店街の性格の違いを、よくあらわしている。それをひと言で表現すると「歓楽街」の赤羽に対する「買い物の町」十条という違いだ

 

 

 

 

 

 

 

 

しばらくゆくと十条仲通り商店街は、北区最大のアーケードである「十条銀座」と交差していた

 

 

この十条銀座は、北区、いや東京都北部ではもっとも賑わっている商店街で、戸越銀座、砂町銀座と並び東京三大銀座商店街と呼ばれているようだ

 

この東京三大銀座商店街というのは、本家の銀座とはまったく関係ないところがおもしろい。しかし、三大があるのだから、三小銀座というのも楽しいかも

 

 

という与太話はともかく、この十条銀座、噂どおり……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かなり活気のある商店街で、文字通り繁華街の賑わいであった

 

 

 

 

 

 

 

こちらのやや幅が狭いアーケードは、十条仲通り商店街の道の続きである

 

 

十条銀座のアーケードを突っ切って、埼京線の踏切の先まで続いているが、そちらは後回しにして、とりあえず十条銀座を左(駅とは反対側)に曲がった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この十条銀座には、200もの店があるそうで、あらゆるジャンルの業種が揃っていそうだが、やはり目につくのは食品関係の店である

 

 

 

 

 

 

 

 

十条銀座には、いくつもの横道が合流していたが、横道も賑やかなのは、十条仲通り商店街ぐらいで、あとはポツリポツリと店があるだけの住宅街のようだ

 

 

 

 

 

 

 

そんな脇道で見つけた最初のヒットがこの建物だ

 

色褪せて破れた軒先テント……赤だったものが、薄いピンクまでブリーチされているすがれた風情の看板建築の中華料理屋である

 

 

この物件を発見して、俄然やる気になり、十条銀座の裏路地を少し散策してみることにした

 

 

 

 

 

 

 

不思議なデザインの建物を見つけた。最初は凝った造形から隠れ家的なフレンチとか会員制の高級クラブかなにかと思ったが、よく観察してみるとどうやら普通の住宅のようだった

 

 

それにしてもなにが不思議って、この建物の2階部分には、ものすごく小さな窓が3ヶ所しかなく、しかもそれが雨戸で固く閉ざされているところに、秘密めいた雰囲気を漂わせている

 

そして屋根には2つの天窓らしきものがあるところに、ヨーロッパ的なデカダンスを感じさせた

 

 

この不思議な住宅のすぐ先には……

 

 

 

 

 

 

 

 

今度は、不思議な看板建築を見つけた

 

周囲は新しい建て売り住宅のなのに、そのど真ん中に、この戦後間もないころのバラックのような看板建築があるのが、異物感たっぷりである

 

 

おそらく昔は、こんな建物が並んでいた場所が、次第に住宅街に侵食され、気づけば井伏鱒二の小説の「サンショウウオ」のように、取り残されてしまったのだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

などと横道に逸れているあいだに、あたりには夕暮れが迫り、次第に薄暗くなってきてしまったので、十条銀座に戻ることにした

 

 

十条銀座には食品関係の店が多いと記したが、ババ服の店も何軒かあり、いずれも妙齢のご婦人がたで賑わっていた

 

そして、やはり目についたのが……

 

 

 

 

 

 

 

 

このような惣菜屋である。値段を見ると破壊的に安く、しかも見るからに美味しそうで、次々と客が訪れていた

 

帰宅後調べてみると、このアーケードにある店と、アーケードから外れた場所にある2軒がとくに激安で知られており、わざわざ惣菜を目当てに訪れる客がいるのもうなずける

 

 

かなり長い十条銀座のアーケードも、そろそろ終わりが見えてきたが、その先も商店街は続いていた

 

 

次回は、十条仲原の商店街が途切れるところまで追跡調査する

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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十条富士見銀座商店街《十条銀座アーケード街》中

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北区で最大のアーケード商店街である「十条銀座」には、200もの店舗があり、あらゆる業種を網羅しているような雰囲気だった

 

 

 

 

 

 

 

 

この花屋は、どうやら廃業した店舗を居抜きで借りて、看板を紙のようなもので隠しただけのインスタントな改装を施していたが、その端が破れて下の文字が見えてしまっていた

 

 

その文字の見え方がじつにミステリアスで、上段は「合」下段は「切れ味の」という中途半端にしか見えないところが、むしろ気になってしまう

 

合は、合カギで、切れ味というからには、包丁などの刃物を扱っていたのだろうか?

 

 

という話はともかく、賑やかなアーケードを抜けたあとも商店街は続いていた

 

 

 

 

 

 

 

 

てっきりその続きも十条銀座なのかと思っていたらアーチを見ると、そこには「富士見銀座」という名称が記されているので、どうやら十条銀座とは違う組織のようだ

 

富士見銀座の文字の横には、千両箱を抱えた招き猫が描かれているが、これが商店街のイメージキャラクターなのだろうか?

 

 

しかし、その景気のいいキャラクターとは裏腹に、富士見銀座に足を踏み入れると、それまでの繁華街的な賑わいから、あたりには、なんとなく寂れた空気が……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの商店街も普段僕が訪ね歩いているシャッター街にはなっていないが、アーケードでは、ついぞ見かけなかったシャッターが閉まったままとおぼしき店舗がちらほらと散見された

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜか山形県のアンテナショップのような店があった

 

この山形交流直産「ペロスケ」のペロスケとは、なにを意味する方言なのだろうか?

 

ペロスケのFacebookがあったので覗いてみると、どうやら店先には、山形の産直品が山と積まれている写真があったので、やはり訪れた時間が遅すぎて商品が売れてしまった後のようだ

 

 

それにしても、このような○○県のアンテナショップ的なものは、銀座とか新宿のような大都会に出店するのがセオリーだと思っていたが、まさか十条、それも十条の中心部である十条銀座から外れたこんな地味な場所に……

 

なにが売られているのか興味深々だったが、夕方だったので商品は、あらかた売れてしまっていたので断言できないが、Facebookに載っていたのは、生鮮食品が多かった

 

 

そろそろ日没が近いので、先を急ごうと思った矢先に……

 

 

 

 

 

 

 

 

ペロスケの先で、我が目を疑うような凄まじい物件を見つけ、思わず立ち止まった

 

な、なんだこりゃ。平屋のバラック建築ではないか!

 

 

十条銀座の脇道の奥で、平屋のバラック的な看板建築はあったが、こちらは写真でしか見たことのないような戦後のドサクサそのものの佇まいを見事に残していた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どのテナントも営業しているような雰囲気ではなく、荒廃した気配が漂っていた

 

そして、店舗部分の上部には、窓が備わっているが、建物の高さ的に2階があるとは考えられないので、これは明かり取り用の天窓的なものであろう

 

 

それにしても、モルタルなどは使用されておらずブリキと木材だけで構成された平屋の商店というのは、都内では絶滅危惧種なので、解体されてしまう前に「東京たてもの園」に移築保存が望ましい

 

もっとも、あのような公共的な施設は、こうしたダークサイドに関わるものは、徹底的に見なかったことにする傾向があるので、このようなバラック建築も、赤線のカフェー建築と同様に、ひっそりと闇に消えてゆくのだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富士見銀座の商店街は、寂れているのか、この時間帯がたまたまひと通りが少ないのか微妙なところだが、十条銀座に比べると明らかに通行人の数が激減していた

 

 

そして、十条銀座ではあまり見られなかった廃業してしまったような店が目につく

 

 

 

 

 

 

 

 

この写真の左側の奥の店に注目。店先にでなにやらグッタリしている人物のような見えないだろうか?

 

 

一瞬、誰かが店先のベンチで休憩しているのかな……と、思ったら

 

 

 

 

 

 

 

 

 

休んでいたのは、等身大のぬいぐるみだった

 

これ、じつは一旦散策を終えて、駅に戻るときに撮影したものである。というのも、行きは道の反対側の建物ばかり見ていたので、プーさんたちに気がつかなかったのだ

 

それにしても、なんでこんなに熊さんたちが並んでいるのか意味がわからない

 

 

 

 

 

 

 

 

これが熊さんたちを見逃していた原因の物件だ

 

こんなツッコミどころ満載の建物があったら、注目するのが人情というものであろう

 

 

どうやらこの飲み屋には入り口のドアなどという洒落たものはなく、この透明ビニールが外気を遮断する唯一の手段のようだ。まあ、それは屋台的な飲み屋には、よくあるパターンなので置くとして……

 

なぜモルタル外壁の看板建築の右側3分の1にだけ青いブリキの波板が張られているのか?

 

 

そして、最大の疑問点は、そのブリキの部分につけられたバブル期の清里のペンション的な不自然にファンシーなドアに貼られた「管理」の文字であろう

 

以上の観察から導きだされる結論は、このモルタル外壁の看板建築の2階は、現在空き店舗になっていて、それを不動産管理会社がテナントを募集しているということだ

 

 

もし、こんなシチュエーションの場所に、なんらかの店があったとして、その店に入るには、かなりの度胸が必用だと思われるが、ここがあの赤羽の隣町であることを勘案すると、北区住民には低いハードルなのかもしれない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

富士見銀座は、この「鳥富士」と、すでに廃業している「トラヤ」という洋品店の先で、環七にぶった切られて終わる

 

ちなみに、富士見銀座商店街の最後にある店は、牛丼の「すき家」で、環七をわたった先にはローソンが見えるが、どうやらその先には店などなさそうである

 

 

しかし、このような商店街は、メインの部分から外れたところに、往々にして掘り出し物があったりするので、環七をわたりローソンの先まで見にゆくことにした

 

 

 

続く。次回このシリーズ最終回。意外な戦前物件が!

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

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そして北区の夜は更ける《十条銀座アーケード街》下

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北区最大のアーケード商店街の十条銀座を抜けると、商店街の名称が富士見商店街にかわり、それまでの賑やかな雰囲気から、やや寂れたものにかわった

 

それでもシャッター街にはならず、ギリギリの線でとどまっているところは、どこか飯能銀座商店街を思わせる。まあ、あちらと違って戦前物件こそないが昭和な雰囲気は、どちらにも共通している

 

 

富士見商店街は、環七にぶつかって終わるが、その交差点には牛丼のすき家があり、環七をわたった先にはローソンがあって、十条駅の横から延びる通りは、ローソンの横でカクッと左に曲がっていた

 

曲がった先は、商店街ではなくなり地味な住宅街にかわった

 

 

 

 

 

 

 

 

それでもポツリポツリと、かつては店だったような戦後型の看板建築があったが、営業している店は、ひとつもなかった

 

 

住宅街といっても、高級な雰囲気は微塵もなく、なんとなく羽田と大森のあいだにある住宅街のような雰囲気が漂う。おそらく、どちらも駅のような交通インフラから見放された状況が共通するからだろう

 

それでもなにかないかと先にすすむと……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

錆び錆びのトタン建築がまとまって建っている場所に出た。ますます大森、それも準工業地帯の森ヶ崎のような雰囲気である

 

 

 

 

 

 

 

 

この建物の1階の部分がへこんでいる意味がよくわからない

 

というか、この建物が住宅なのか、それともなにかの事務所なのか、それすらも判然としないミステリアスな造形である

 

 

ここから先は、さすがになにもなさそうだったが、念のため見に行くと

 

 

 

 

 

 

 

この現役の床屋を最後に、元店舗らしき物件すらなくなったので、十条銀座のほうに引き返すことにした

 

 

 

 

 

 

 

 

夕暮れ時になり商店街が夕日に染まる

 

十条銀座はすでに見たので、十条銀座と富士見商店街の分かれ目の十字路を左に曲がってみた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが、その道はすぐに西京線の線路に分断されてしまい、踏切から先には店などなかったので、あきらめて十条銀座の続きを見に行くことにした

 

先ほどは、交差していた仲通りから左に曲がったので、仲通りから見て右側、つまり十条駅前を見ていないからだ

 

 

 

 

 

 

 

 

すると、昭和のまんま時間を止めたような、こんなよさげな食堂があるではないか

 

じつは、ほんの少し前に環七のすき家で牛丼を食べてしまったので、いまさら発見しても後の祭りであるファッキン!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ほどなく十条の駅前に。振り返って十条銀座のアーケードをパチリ

 

この写真の右側に地味な十条駅があるが、僕の視線は、これを撮影した立ち位置の斜め後ろにあった物件に釘付けになった

 

 

 

 

 

 

 

 

ナイス看板建築! てゆーか、これって間口半間?

 

今まで数々の看板建築を見てきたが、間違いなくもっとも建物の幅が狭い物件であろう。驚いたことに、自販機2台ぶんの幅しかない

 

 

どうやら現在は、自販機のみの稼働のようだが、2階には窓があり、よもや飾りということはないだろう。しかし、このスペースにどのような階段を設けたのだろうか?

 

この建物、モルタルならぬコンクリートで壁面を固められてしまっているが、よく見ると軒先テントの左上の部分が剥落して、その下から豆タイルが覗いていた

 

ということは建造当初は、豆タイルを配したかわいいデザインだったものだと類推できる。おそらくタイル落下防止のため固めてしまったのだろうが、非常に残念である

 

 

 

 

 

 

 

 

その並びにも気になる看板建築があった

 

「grand cafe」はともかく、その隣の「理容オニザワ」は、けっこう昔からありそうだ。しかし注目すべきは、店舗ではなく主屋の部分である

 

 

どうやら本体はけっこう奥の位置にあるようで、店舗部分の真上がけっこう広い物干し台になっている。これは僕の推測であるが、これってもしかしたら戦前の出桁造りなのでは?

 

 

 

 

 

 

 

 

などと空想を膨らませるのは、あながち的はずれな意見ではない。じつは、この駅前通りからすぐ南側を通る広い道路(都道455線)に出たところには……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような明確な戦前物件の「木田酒店」という出桁造りの建物が残っているのだ

 

このシリーズの冒頭で、戦前物件が“ないわけではない”と記したのは、以前、途中下車してブックオフに行ったとき、この建物を発見していたからだ

 

 

都道沿いは、あまり商家の建物がないので、来た道を引き返して十条銀座に戻り、初回でスルーした十条仲通りの続きを見に行った

 

 

 

 

 

 

 

 

すると十条仲通りから十条銀座を横切った先は「十条中央商店街」という名称の商店街であった。この商店街を、まっすぐゆくと東十条の駅前にぶつかる

 

 

それにしても、パッと見目に入る看板は「大漁 築地丸」「花 フラワーショップ」「タイレストラン」「串カツ でんがな」などと、まったく統一感がない

 

飲食店ばかりではなく、築地丸の建物の1階は古着屋で、まさにカオスな様相を呈していた

 

 

 

この雑多な商店街をしばらくゆくと

 

 

 

 

 

 

 

 

大衆演劇の劇場がある。このような物件があるということは、こちらはかなり昔、おそらく戦前からの商店街だと思われる

 

というのも、この篠原演芸場は、1951年と戦後の創業だが、その隣には……

 

 

 

 

 

 

 

 

このような見事な出桁造りの商家が残っているからだ

 

すでにけっこう遅い時間だったので飲食店を除く店は、ことごとく閉まっていたが、この建物は、現役のように見えた。しかし、Googleマップにはなにも記されておらず、廃業してしまっているようだ

 

 

当初の目論みでは東十条まで歩くつもりだったが、サンマルクカフェでうだうだしていたので、いつの間にかもう9時近い時間になっていた

 

 

 

 

 

 

 

 

この日赤羽岩渕に到着したのは、まだ昼前だったので、驚いたことに10時間近くうろうろしていたことになる。どうりで疲労しているわけだ

 

ということで、この日はエンプティー状態になったので帰宅することにして、再び十条駅に向かった。もちろん帰りの京浜東北線の椅子に腰かけた途端に眠りこみ、川崎まで一度も目を覚まさなかったことは言うまでもない

 

 

 

《十条銀座アーケード街》おしまい。さて次回1回クッションをはさみその次は、久しぶりにDEEPな横浜を散策したのでお楽しみに

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

 

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家系ラーメン暴れ行脚 疾風怒濤編

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このところ長~い記事が続いたので、久しぶりに単発の記事を書こうと思ったら、単発ネタになりそうなのは、家系ラーメンの記事ぐらいしか思いつかなかった

 

これはひとつのSDカードに入っていた家系の写真を集めたもので、他のカードには国分寺の「武道家」駒澤大学の「家丸」などの写真もあった記憶があるので、家系の記事がもう1本書けるような気がする

 

 

タイトルバックに使った写真は、北千住の赤線跡地「大門商店街」である。北千住といえば、牛骨ラーメンの店をはじめとして、有名なラーメン屋はたくさんあるが、繁華街とは反対側の東口を降りて3分も歩くと……

 

 

 

 

 

 

 

 

非チェーン店では、もっとも数が多いと思われる「武蔵家」を見つけてしまったので、入らざるを得まい

 

 

武蔵家は、新中野の店から暖簾分けした店が東京の多摩地域を中心に、やたらとたくさん(川越にもある)あり稲田堤の店は、かなり贔屓にしている

 

とはいえ、暖簾分けなので屋号は同じだし、どこどこ店が特別美味いとかそういうこともなく、だいたいどこの店も平均的な味で、6店舗ほど食べたが、やはり突出した店はなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし、見方をかえれば、どの店もちゃんとしたレベルに達しているということなので、たとえば入る店に困った場合もし近くに武蔵家があれば、よもや外れということがないということで、あれば非常に助かる店である

 

ということで、北千住の武蔵家も当然外れることはなく、無料のライスとともに、美味しくいただいた

 

 

例外は日吉店で前述のとおり、どの店もさほど変わらぬレベルなのに、慶応大学のお膝元にあるため、常に学生たちでとても混雑しており、武蔵家で並ぶ気にはならないので、たまたま空いていたときに一度入ったたけだ

 

もちろん、他の店より特別美味いことはなく、かといってレベルは低くない、想定内の平均的な味であった

 

 

という理由で、日吉あたりで家系が食べたくなった場合、ひとつ渋谷寄りの元住吉の「てっぺん家」によく行っていたのだが、この店は六角家の直系なのに、麺を酒井製麺系からパツパツの麺にかえてしまったので、あまり行かなくなってしまった

 

僕が家系ラーメンを食べたくなるのは、酒井もしくは酒井的なあまり腰のない太い麺というのが大きな要素を占めている

 

 

したがって、店主の向上心は認めるが、ラーメンの美味しさとは違った次元で、それは僕が食べたくなった家系とは異なるものなのだ

 

 

そんなとき重宝するのが、日吉のひとつ横浜寄りの……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

綱島にある横浜ラーメン「武虎家」である

 

この店も新中野武蔵家の系列にはなるのだが、分倍河原の「若武者」と同じように、武蔵家は名乗らずオリジナル路線を行っている

 

 

 

 

 

 

 

 

とはいえ、その方向性は大きく武蔵家を外れることもなく、やはり無難な、しかし安定感のある味で、とくに文句をつける点は見当たらず、常に混雑している日吉の武蔵家よりこちらに入ることのほうが多い

 

というより、最近はこの店が贔屓だ。あっ、あと駒沢大学にある「家丸」ね

 

 

 

 

 

 

 

 

少し以前に、中央線の三鷹から隣の武蔵境まで散策した記事を上梓した

 

 

 

 

 

 

 

 

武蔵境といえば、南口の駅前にあるこのヘンテコな建物が気になる

 

なんだか半世紀ぐらい前の手塚治虫のマンガの背景に出てきそうなインチキ臭いSFちっくなデザインだ。ググってみると武蔵野生涯学習振興事業団という、なにやら天下り臭い団体が運営している施設のようだ

 

 

という話はどうでもよく、その記事は、コンパクトにまとめたので、夕食を食べた経緯は省略したのだが、駅前でタブレットで検索してみると、立川にある「つばさ家」から暖簾分けした店があることが判明した

 

 

立川のつばさ家は、ずいぶん昔、このブログをはじめる前に一度食べたっきりで、どんな味だったのか、さっぱり思い出せないが、悪かった記憶もないので、見つけた以上食べないわけにはゆくまい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの店もルーツは六角家らしいのだが、あまり直系的な味ではなく、むしろ武蔵家に近い微乳化のトロッとした感じのスープだった

 

チャーシューも直系特有のスモーキーさはなく、どちらかというと柔らかいもので、この微乳化スープには、こちらのほうがよりマッチしているようだ

 

 

麺は酒井ではないと食べログに書かれていたが、茹で加減が柔らかめだったせいか、あまり酒井との差異は感じなかった

 

大盛りも無料だそうで、大食いの学生にはよいサービスであるが、僕は大盛りだと飽きてしまうから、武蔵家のようにライス無料のほうがありがたい。というのも、やはり家系のスープは、どうしてもライスがほしくなるからだ

 

 

と、ものすごく久しぶりにつばさ家のラーメンを食べたら、本店が食べたくなり……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌週、立川の本店に行ってきた

 

立川といっても繁華街を外れた、ちょっと寂しい場所にあるが、食べログ評価3.5は伊達ではなく、昼食には遅く夕食には早い時間にも関わらず、空いている席はふたつしかなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

武蔵境がけっこうよかったので、かなり期待して口にすると

 

 

えっ、なにこれ。めちゃくちゃ味が薄いんだけど……

 

スープは、ほとんどカエシが効いていない感じで、武蔵境のようなトロッとした濃度も感じない。しかたないので卓上の調味料を入れてなんとかごまかして食べ終えたが、ガッカリである

 

 

あとで食べログを見ると、どうやらこの店、かなりブレがあるようで、上ブレのときはめちゃくちゃ美味しいが、下ブレのときはガッカリな味らしい

 

食べログでトップにレビューが出ている女性は、2回続けて下ブレを食らったと書いてあったのが妙に納得してしまった。その女性は、3度目にしてアタリを引いたらしいが、僕はそういうギャンブルは好きではないから、もう行くことはないかな……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ガッカリした気分を引きずらないように、ブック○フでミステリを買って気晴らししようとしたら、その小説もハズレで、ガッカリのダブルパンチを食らってしまった

 

ということで、久しぶりのラーメン記事は、なんとなく後味の悪いまま終わる

 

 

 

 

 

追伸

 

 

 

ここで残念なお知らせが……

 

先日、ちょっと世田谷に野暮用で出掛けたら、このブログで何度か取りあげた貴重な建物の解体が確認された

 

 

その1

 

 

 

 

 

 

 

 

東急新玉川線の用賀駅から渋谷寄り、旧・矢倉沢往還沿いに、この界隈で唯一残っていたこの出桁造り商家が更地に……

 

 

その2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これはもう、なにかのお告げとしか思えないが……

 

ほんの数日前の記事に掲載した、おそらく都内で唯一の、経堂にあったトタン張り茅葺き屋根の現役商家のこの建物が、意味のない道路拡幅工事のため解体され更地に……

 

どうやら当ブログで危惧していたオリンピックに便乗した、土建屋とそれに連なり利権を漁るクソどもの破壊活動は、とどまるところを知らないようで、今後もこのような解体例が増加するものと思われるファッキン!

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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横浜関門跡から軽井沢へ《旧・東海道細見記》①

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東京の北部DEEPエリアから一転し、今回から久しぶりに横浜を散策した記事を掲載する

 

今まで散策した横浜の記事は、鶴見の下末吉とかリトル沖縄、あるいは子安から大口などのきわめてマイナーかつDEEPな地域であったが、今回散策するのは、大メジャーな旧東海道である

 

 

 

 

 

 

 

 

横浜駅を降りたつと繁華街は華麗にスルーして、ほとんど誰も足を向けない旧東海道に向かう

 

とはいえ、旧東海道はよく知られたスポットなので、Googleで検索すると街道歩き系や、歴史散策系のブログは正直いくらでもヒットする

 

 

しかし、どの散策記事を見てもメジャースポット以外は、ほとんどスルーで、数枚の写真だけでお茶を濁し、あっという間に戸塚に到着するのが定番である

 

もちろん、それには理由がある。というのも旧道沿いは、すっかり開発され尽くされていて、歴史的遺物など注目すべきものがほとんど何もないのだ

 

 

ーーが、当ブログでは重箱の隅を突っついて、さらにほじくり出す勢いで、どうでもいい細部をじっくりと見てゆこうと思う

 

 

 

 

 

 

 

 

という意気込みで旧東海道に着いたが、ご覧のように鬱陶しいマンションばかりで、浮世絵にあるような松並木に茶屋が並び、その後ろには海……という、かつての風情などはカケラも残っていない

 

ただし道筋だけは同じなので、かなり急勾配の坂が旧道の面影を残していた。撮影していると、若いお母さんがママチャリで次々と通過してゆくが、そのどれもが電動自転車だった

 

 

この坂の途中に、ほとんど唯一といってよい江戸時代からの店舗が残っている。どの散策記事にも必ず掲載されている超メジャー物件だ

 

 

 

 

 

 

 

 

それがこの文久3年、清河八郎に集められた浪士隊が、京に旅立った年に創業された料理屋「田中家」である

 

この物件が有名なのは、江戸時代の創業というのもあるが、やはり坂本龍馬の関係者がこの店で働いていたという事実が大きい

 

 

 

 

 

 

 

 

そう、明治7年から勝海舟の紹介で、龍馬の妻おりょうが働いていたのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

説明板には、往時の見事な木造三階建ての店の写真が掲載されていたが、残念ながら戦災で今はもう存在しない。もし残っていたら間違いなく文化財だっただろう

 

この田中家の立地は、横浜のこのあたりの地形を端的に象徴している

 

 

 

 

 

 

 

 

というのも、この建物は、僕がよくブログで書いている横浜名物の崖っぷち物件なのだ

 

かつてはこの崖の下はすぐに海だったことがよくわかる地形であるが、現在、この崖から海に出るには、相当な距離を歩かなければならない。なぜならば横浜駅周辺の繁華街は、かつて海の底だった場所にあるからだ

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな急峻な崖も横浜、川崎では、びっしりとマンションや住宅が建ち並んでいるのが当たり前の風景だ

 

 

いや、そんなのは尾道や長崎も一緒じゃん、という意見もあろうが、あちらには風情というものがあるのに対して、横浜、川崎の急斜面の町に、風情などというものは一切なく、ああ、すごい場所に家を建てたなあ……

 

と、なかば呆れるだけである

 

 

 

 

 

 

 

 

このマンションもかなり凄いことになっている

 

建物の左側にある出っ張りの上に、マンションの部屋が無理やりオーバーハングしていた

 

 

確かめたわけではないが、おそらく建築法の網の目をくぐるため、このマンションの1階は崖の上にあり、こちら側から見て地上1階から3階に見える部分は、法規上は地下階になっているのではないだろうか?

 

そこには尾道や長崎とは違って、風情や美学などは、カケラも存在しておらず、あるのはあくなき利益追求の賎しい性根だけだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらも有名な横浜関門跡。外国人居留地に、過激浪士が侵入しないように儲けられた関門の跡地である

 

個人的には、関門よりもそこから分岐している中山方面に向かう旧道のほうが気になる

 

 

どのようなルートで中山方面に向かうのかGoogleマップを開いてたしかめてみたが、すっかり道筋がかわっているようで、途中で見失ってしまった

 

この関門跡のすぐ横の擁壁は……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現代的なコンクリートではなく、古そうな石積であった。石積の擁壁の隅っこには、なぜか井戸が残っていた

 

坂道を登りきると左側に、海岸(海なんてないけど)に下りる階段があった

 

 

 

 

 

 

 

 

崖下にはびっしりとビルが建ち並び、まるで風情はないが、坂道自体は途中で曲がってたりして、かなり興味深いので、再び登るのはカッタルイけど、下まで下りてみると……

 

 

 

 

 

 

 

するとそこにあったのは、水素風呂が名物らしいラブホで、かなりゲンナリして再び階段を登った。それにしても、いい感じの階段である

 

崖の途中にあるのがマンションではなく樹木で、崖下にラブホがなければ、風光明媚な景色だったにちがいない

 

 

再び旧東海道に戻るが、相変わらず鬱陶しいマンションと当たり前の住宅が並んでいるだけで、ここがかつての東海道だと認識するためには、かなりの努力を要するつまらない風景が続く

 

あまりにも見映えのなさに、カメラはカバンにしまったままで、取りだそうという気持ちすら起こらなかった

 

 

しかし、頭上を高速道路の高架橋が横切るあたりに差しかかると、それまでとは多少おもむきがかわり、なんとなく古道だったような雰囲気が漂いだした

 

 

 

 

 

 

 

 

このたありは軽井沢という、どこかで聞いたことがあるような地名である

 

 

もちろん北関東の有名なリゾート地からパクったのではなく、昔から軽井沢という地名であった。しかし、どのような由来で軽井沢になったのかは、諸説あってはっきりしない

 

 

 

 

 

 

 

 

地形を見ると軽く谷戸状になっているため、枯れ沢から軽井沢に訛化した説は納得しかねるし、なんとも不思議な地名だ

 

しかし、なんとなく風情があったのは、この高速道路の高架橋の周囲だけで、そこから先は、ごく当たり前の日本中どこにでもあるような住宅街になってしまった

 

 

でも軽井沢というぐらいなんだから、少しぐらいは見所があるだろう……と、軽井沢町をうろうろしてみた

 

本場の軽井沢ならともかく、横浜の軽井沢を散策する物好きなどは、僕のほかにはいないであろうと思われる

 

 

はたして軽井沢には、どんな物件があるのか?

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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文化住宅と浅間下商店街《旧・東海道細見記》②

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ゆうべは、またしてもエラーで「いいね」が表示されないという、フザケた事態になっていやがった。しかも再読み込みしても無反応……

 

いい加減にクソサーバーなんとかしろよダメブロファッキンシット!!

 

 

という前おきはともかく……

 

横浜駅から旧東海道に出て、しばらく西にすすむと軽井沢という町に出た

 

軽井沢といってもリゾート地のパクりではなく、昔からある由緒正しい地名であるが、その由来ははっきりしない。古そうな町なので、なにかしらあるだろう……

 

 

と、ほとんど通行人もいない閑散とした軽井沢町をうろつくが、目に入るのは新しい建て売り住宅ばかりで、出桁造り商家とか古民家などは、一切見かけなかった

 

昨日は、軽井沢に期待を寄せるコメントを多数いただいたが、どうやら静かな住宅街で、とくに見るべきものはなさそうなので……

 

 

いい加減散策を切り上げようとしたとき

 

 

 

 

 

 

 

 

山裾にようやく旧家を見つけた。大谷石っぽい素材で造られた土蔵がいい感じである。奥には古民家然とした主屋が見える

 

しかし、この物件以外は、とくに見るべきものがなく、旧東海道に戻ろうと思ったら……

 

 

 

 

 

 

 

 

今度は素敵な文化住宅があった。やっと軽井沢っぽい建物を見つけて、ちょっとテンションが上がった

 

文化住宅の特徴である出窓部分が鮮やかなブルーで塗装されているが、ペンキが剥げかかっている。まさか廃屋?

 

 

この文化住宅のすぐ先で旧東海道は、高島町から三ツ沢方面に向かう大通りと交差していた

 

 

 

 

 

 

 

 

この交差点は浅間下(せんげんした)というようだが、それはこの少し先に浅間神社があるためである

 

軽井沢に浅間というのは、ちょっと出来すぎのような気がするが……

 

 

しかし、旧道沿いで神社があるというロケーションは、古くから町が拓けていた可能性が高いと考えていたら、そこにはやはり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浅間下商店街という片側アーケードがあった

 

どういうわけか横浜の商店街は、横浜橋、六角橋、大口など、アーケードを備えているものが主流を占めている

 

 

しかし、この浅間下商店街は、おそらく道路が拡幅されたせいなのか、ごく小規模の商店街で、アーケードは30メートルぐらいゆくと、すぐに終わってしまった

 

しかたないので旧東海道に戻ったとたん……

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜかヨガのポーズをとる黒猫と目が合ってしまった。君、えらく身体が柔らかくないかい?

 

逃げる気配がなかったので、あのー、もしよろしかったら、なでなでをしてもよろしいでしょうか?

 

 

と、お伺いをたてると

 

 

 

 

 

 

 

 

すごい勢いでこちらに突進してきて、足の周りをぐるぐる回りだした。かなり人懐こい性格のようで、心行くまでなでなでして癒される

 

君、首輪があるから飼い猫だね

 

 

いつまでも黒猫にかまっているわけにもゆかず、名残惜しいけど散策に戻った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浅間下は、やはり古くからの町のようで、元商家の建物が並んでいた

 

しかし、そのどれもが、とっくの昔に商売はやめて廃業してしまっており、店舗があった部分は住宅に改装されていた

 

 

この4軒並んだ元商家のすぐ脇に、浅間神社の参道入り口があった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

驚いたことに、浅間神社の庭園とおぼしき部分が、崖の上に張りだして造られていた。やけにarchitectureなその風情は、文字通り空中庭園である

 

 

実際に空中に浮いているわけではないが、ラピュタ神社として有名になるかもしれない

 

 

この少し先には、かつて色街があったそうだが、現在は完全に住宅街

に上書きされ、なにひとつ遺構は残されていないようだ

 

しかし、旧東海道の面影は、なんとなく残っていて……

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜか土台部分に幾何学模様が施された土蔵があった

 

 

今まで数々の土蔵を見たが、こんな派手なやつは初めて見た。この幾何学模様には、どんな意味があるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

その先の脇道には、建物に取り囲まれてしまった土蔵があった

 

十条で見かけたサンショウウオ化したバラック看板建築と同じパターンで、こうなったのだろうか。なんとも不思議な状況である

 

 

手前にバラックに毛が生えたような建物があるけれど、造りからして、もしかしてなんらかの店だったのだろうか。そのわりに、まったく窓がないのが謎である

 

 

 

 

 

 

 

 

少し先で、それまで常に右側にあった崖が途切れている場所に出た

 

崖の壁面は、崖崩れ防止のため完全にコンクリートで固められ、なんだか悲惨な姿にされていたが、このコンクリート崖は、横浜ではよく見かける気がする

 

 

このコンクリート崖のところで……

 

 

 

 

 

 

 

 

旧・東海道から八王子道が分岐しており、かつては追分と呼ばれたという旨の道標が立てられていたが、新建材のオモチャのような建物ばかりで、恐ろしく風情がない

 

しかし、八王子道ということは、国道16号線の旧道ということなのだろう。ということは、この道をゆくと橋本を抜けて八王子に着くわけだな、と感慨にふける

 

 

ちなみに、このような街道は、たどり着く先の地名で呼ばれることが多い。したがってこの旧道は、町田や八王子方面では八王子道ではなく、横浜道と呼ばれている

 

 

 

 

 

 

 

 

この追分の先から旧東海道は、洪福寺松原商店街という、旧道なのに賑やかという、首都圏では希な商店街になっている

 

そろそろ陽も傾いてきたことだし、日没の前に洪福寺松原商店街を散策することにした

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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洪福寺松原商店街をゆく《旧・東海道細見記》③

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旧東海道をしばらく歩くと、洪福寺松原商店街に出た

 

この商店街は、横浜でも有数の賑やかな商店街で「ハマのアメ横」と呼ばれ、年末には買い物客で凄い混雑になるそうだ

 

 

しかし、その歴史はあまり古くなく、元々米軍の車両置き場だったものが返還されたことによってはじまった戦後の商店街である

 

そして、洪福寺でも松原でもなく洪福寺松原商店街と、ダブルネームになっているのは、洪福寺の門前商店街と松原商店街が合併してできたものであるからだ

 

 

皮肉なのは、商店街としての歴史も古くカフェー街まで有していた洪福寺商店街のほうは、すっかり寂れて消滅してしまったことであろう

 

 

横浜駅の方向、つまり東側からこの商店街に入ると、こちら側は商店街の最寄り駅の天王町駅からもっとも遠いせいか、廃業した店や更地が目立ち、あまり賑やかな商店街には見えなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

最初に目についたのは、宇宙から怪しい電波を受信していそうなのこバラックじみた店である

 

 

やたらと文字だけのポスターが貼られており、宇宙人からのメッセージでも記されているのかと思って、おそるおそる読んでみると……

 

なんてことはない、ただの電気工事専門店で書いてあるのは「ホコリのたまったコンセントは危ない」など、ごく一般的な電気に関する注意書だった

 

 

 

 

 

 

 

 

商店街の出だしは、なんとなく閑散とした雰囲気が漂っていたが……

 

 

 

 

 

 

 

 

この煙草屋と手作り餃子の店のあたりから歩行者天国がはじまり、評判どおりの賑やかな商店街にかわった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洪福寺松原商店街は、生鮮食品などを中心に食料品を扱った店が多いようで、店先には大量の商品が並び、おおぜいの買い物客でごった返していた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

事前にネットで商店街の雰囲気を調べたら、年配の客が多いなどと書かれていたが、実際に訪れてみるとまったくそんなことはなく、むしろ幼い子どもを連れた若いお母さんや、30代ぐらいのカップルが目だっていた

 

もちろんお年寄りの客もかなりいるが、決して年配者向けの商店街ではなく、若いひとでも十分楽しめる商店街だ

 

 

 

 

 

 

 

 

食料品以外の店でもハマのアメ横の異名は伊達ではなく、やたらと安売り店が多い

 

この商店街は、シャッター街にならずに生き残る方策として、安売りを目玉にすることを選択して、商売には厳しいこのご時世を乗りきっているようだ

 

 

そのおかげで、交通インフラ的には決して有利とは言えない立地にも関わらず、横浜でも指折りの商店街に発展した

 

それは以前リポートした、かつては横浜有数の賑わいだったのに、すっかり寂れてしまった大口の商店街とは、対照的な姿である

 

 

ーーと、賑やかな商店街のリポートを、このブログで続けるのはガラではないし、そのような記事ならネットで検索すると、山のようにヒットする

 

ということで、賑やかなメインストリートから離れ、いかにも僕らしく、さっさと横道、裏道に入ることにすると……

 

 

 

 

 

 

 

 

さっそく廃業してガランドウになった看板建築を発見した

 

ファサードの「つるや」の文字が剥がれ落ち「る」しか残っていないところが味わい深い建物である

 

 

その先の横道に入ってみると……

 

 

 

 

 

 

 

 

ファンタスティック! いきなり素晴らしいバラックの建物があった

 

ブリキとベニヤ板で構成されたバラックには、名刺、ゴム印の文字と「小林尚美堂」の文字が

 

 

最初に見たときは、てっきり小林尚美さんという女性が経営している店かと勘違いしたが、これは「小林」「尚美堂」という意味合いであろう

 

 

 

 

 

 

 

思わずテンションが上がるような、素晴らしい看板建築の豆腐屋があった

 

モルタル外壁の戦後型看板建築であるが、屈曲したファサードが見事なデザインである。戸袋にダイヤ柄というのも、昭和30年代ちっくでいい感じだ

 

また「和光豆腐店」の文字と、軒先テントの色合いを、ブルーでコーディネートしているのが憎い。しかし、雨戸は固く閉ざされており、すでに廃業しているような感じである

 

 

あんまり気に入ったので、反対側からもう1枚

 

 

 

 

 

 

 

 

この脇道は、かなりヒットで、和光豆腐店の向かい側にも

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和感丸だしの電気屋があった

 

しかし、電気屋よりも僕の心をとらえたのは……

 

 

 

 

 

 

 

 

その隣にあったもじゃハウス化した廃屋である

 

植栽が傍若無人に生い茂り、建物がすっかり見えなくなっており、もじゃもじゃした植栽の緑色のなかに、芙蓉の花がピンクのワンポイントを添えていた

 

 

この退廃的な美は、英国の廃園趣味に通じるものがあるな

 

 

と、気分が盛り上がってきたところで……続く

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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洪福寺松原商店街の路地裏《旧・東海道細見記》④

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あれほど僕が苦言を呈しているのに、相変わらず重いのが直らない

 

おかげで男子にとって、まったく必要のない化粧品のお試しセットをミスタッチしたり、自分に「いいね」をするなど、ムカつく事態が頻発している。いい加減にしやがれファッキン!

 

 

という前おきはともかく

 

首都圏にある旧道というものは、寂れてひと通りもまばら……

 

というのが、デフォルトの設定になっている。板橋あたりの旧中仙道は珍しく賑やかな通りであるが、昔の写真を見ると現在の比ではないほど賑やかだ

 

 

国道246号線の旧道である旧矢倉沢往還の池尻大橋と三宿のあいだの区間などは、玉電が走っていたころは商店街だったが、現在、店などはほとんどなく、出桁造りの商家がポツリと1軒残っているだけの住宅街になってしまった

 

そうした町と比較すると、この旧東海道にある洪福寺松原商店街は、数少ない例外といってよいだろう

 

 

もっともそれは、旧東海道というのが発展の理由ではなく、商店街自体の努力が実ったことによるので、あまり比較の対象にはならないかもしれない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

商店街のメインストリートから、この豆腐屋と電気屋のある雰囲気のよい路地裏に曲がると、次の角に……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

驚いたことに平屋の木造家屋が残っていた

 

その周囲は、すっかりマンションなどに囲まれてしまっているが、まるで孤高を保つかのように残っているところが興味深い

 

この平屋はまだ現役の住宅なのか荒廃した気配はなく、わりと手入れが行き届いているように見えた

 

 

 

 

 

 

 

 

帰るときに立ち寄って確認してみると、なんと明かりが灯っていた

 

 

いいねえ。ほとんど三丁目の夕日の世界のような心暖まる風景ではないか

 

 

 

 

 

 

 

 

裏手の住宅街には建物の外壁が、ほとんどブリキの波板で構成された錆び王みたいな一軒家があった

 

家の部分は定番のブルーではなく、黄緑というかウグイスというか、微妙な色合いに塗装されて、それが錆びついて骨董でいう一種の「景色」になっているところが渋い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

商店街に戻ると次の十字路が、洪福寺松原商店街の中心部である

 

この軒先テントの上に段ボールが放り投げてある外川商店は、この商店街の象徴のようで、この商店街をリポートした記事には、たいてい紹介されている

 

 

 

 

 

 

 

 

忙しくて、いちいち段ボールを畳む暇がなく、テントに放り投げていたのが、いつの間にか名物になってしまったようだ

 

この十字路の周囲は、文字通りこの商店街の中心部で、ひっきりなしに買い物客が行き交い、画面から人物を排除するのが難しい。5分ほど佇んでいると、一瞬人波が途切れたのでシャッターを切る

 

 

隣の洋品店は、すでに廃業してしまったのか荷物置き場になっていた

 

 

この十字路を西に曲がったあたりも、常に買い物客が途切れず、首都圏では絶滅危惧種のマーケットがいくつかあり、常に多くの客が出入りしていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ファサードに○に京と記された渋い看板建築の「京町屋食品店」も、ひっきりなしに買い物客が出入りしていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕はブログの取材で歩き回ってきるときは、思考が完全に撮影モードに切り替わっているので、そこでなにが売っていたとか、どんな店だったのか……

 

といった記憶が抜け落ちている場合が多い

 

 

どうやら撮影モードに入ると食欲も抑制されるようで、気がつくと6時間ぐらい飲み物しか口にしていないことが多く、この日も散策をはじめてすぐに、軽井沢あたりで缶コーヒーを飲んだだけで、何も口にしていなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

いちばん賑やかな十字路の先で、商店街は首都圏外郭部の動脈である国道16号線に分断されているが、その先も続いている

 

この商店街の不思議なところは、この先に相鉄線の天王町駅があるのに、駅に近い場所よりも、駅から離れたこのあたりのほうが栄えていることであろう

 

 

普通なら駅前付近がいちばん栄えて、幅の広い国道に分断された先が寂れているのがデフォルトなのに、ここではその法則は完全に逆転しているのだ。これはじつに稀有な事例と言ってよいだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

国道16号線をわたったところに、昭和な雰囲気の喫茶店があった。店の名前を見ると「かど」って、そのまんまやないかい! と、心のなかでツッコミを入れる

 

「かど」と向かい合わせの角にあったのは整骨院で、その看板も思わずツッコミたくなるものであった

 

 

 

 

 

 

 

 

おいおい、死んでまうがな!

 

この投げ方は柔道じゃなくて、まるで一撃必殺の甲冑の戦闘武術、柳生心眼流の投げ技ムクリのようである、てか、このまま落としたら確実に死ぬぞ

 

 

と、小ネタをはさんだところで、次は天王町側の商店街を見るつもりが、思わぬDEEPな物件に出会うことに……

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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大人のおもちゃな横浜《旧・東海道細見記》⑤

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大不評の山手線の新駅「高輪ゲートウェイ」に撤回運動が起きている

 

 

まあ、このまったくセンスのカケラもない駅名に決まった経緯は知らないが、国辱的な駅名であることは間違いないだろう

 

これが山野しかなかった多摩丘陵を切り拓いて造られた「たまプラーザ」のような新開地ならともかく、江戸の昔から町があった芝高輪あたりの駅名としてふさわしくないことは、類人猿ぐらいの知能があればわかりそうなものである

 

 

個人的には立川談志師匠の代表作にちなんで「芝浜」あたりがよいのではないかと

 

 

という前おきは……やめておこう。また夢になるかもしれねえ←

 

横浜駅から旧東海道を西へ。賑やかな洪福寺松原商店街は、いちばん賑やかなあたりで、国道16号線に分断されていた

 

国道にぶった切られた先も商店街は、相鉄線の天王町駅まで続いているが、タイトルバックの写真からわかるように、横浜有数の賑やかな商店街から、ごく普通の駅前商店街に様変わりしてしまう

 

 

我々の持つ一般的な常識の、商店街というものは駅前あたりがもっとも栄えていて、駅から離れると次第に寂れる……という認識が根底から崩される光景である

 

 

 

 

 

 

 

 

普通の商店街にかわった洪福寺松原商店街の途中から、西に延びる商店街があった

 

その商店街は、すっかり近代的に整備されているが、先ほどまでの賑やかな様子とは打ってかわり、ほとんど通行人も歩いていない寂れ方であった

 

 

先ほどまでとは異なり新しい建物ばかりなのに、この寂れ方は尋常じゃないと思ったら、この通りの突き当たりに出来たイオンモール(写真のいちばん奥に見えている肌色の建物)に、すっかり客を奪われてしまったようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

イオンモールの手前には「おさかな」の文字が記された廃業してしまったような鮮魚店があり、金ピカのマグロが看板がわりに、虚しくぶら下がっていた

 

せっかく商店街を端まで歩いてきたのに、新しい建物ばかりで、ほとんどフォトジェニックなものが見当たらず、つまらないから路地裏に入ると……

 

 

 

 

 

 

 

 

いきなり定番のブルーに塗装されたブリキのバラックがあった

 

 

うんうん、やっぱりこれだよな。と、ひとり納得しながら撮影したあと、商店街と平行している広い道路に出てみると

 

 

 

 

 

 

 

 

今度は、ほどよいヤレ方の看板建築の煙草屋があり、撮影していると、道路をはさんだ反対側に、なんだか凄いものが目に入った

 

 

 

 

 

 

 

 

ムムム、これはもしかしてバラックか?

 

どうやら平屋のバラック建築の建物のようで、通りに面した場所には「我儘」という居酒屋が入居しているようだが、注目すべきは、屋根の上に屹立している「大人のおもちゃ」という赤い看板であろう

 

てゆーか、大人のおもちゃなんて単語を見たのは、平成になってから初めてかもしれない

 

 

これはただ事ではないぞ、と、近くまで行ってみると……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「大人のおもちゃ ニュードリーム」だと?! うーん、やはりただ事ではなかった

 

これが2018年の風景だと誰が信じるであろう。そこにあるのは、昭和の場末そのものの風景で、あまりの衝撃に、しばし呆然と佇んでしまった

 

店舗の入り口が全面的にテント地なのが、本体のブルーに塗装されたブリキと見事にカラーコーディネートされており、店の前に勝手に生えたとおぼしきススキが、それにアーシーな彩りを加え一幅の絵のような風景である

 

 

ニュードリームの周囲を観察すると、ほとんど一区画が更地(駐車場)や新しいマンションにされている。ということは、おそらく周囲が地上げされて、この店だけが取り残されたのだろう

 

今回の散策は、この物件に出合うことが出来ただけで、大成功と言ってよいだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

ニュードリームから東に少し歩くと洪福寺松原商店街に戻ってしまった。どうでもいいけど、このファミマの建物って、元はパチンコ屋だったような雰囲気だよね

 

元パチンコ屋風のファミマを右に曲がると

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大岡川に夕焼けが映える。その先は相鉄線の天王町駅である

 

 

ちょうどよいタイミングで日没になったので……

 

ここで散策を終えることにして、せっかく洪福寺松原商店街に来たのだから、この商店街の外れにある有名な家系ラーメンの店で夕食を摂ることにした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラーメン屋は、洪福寺松原商店街から東に延びる横道にあるが、その通りも商店街の続きのようだ

 

どうやら閉店時間のようで、どの店も片付けているさいちゅうだった

 

 

 

 

 

 

 

 

古い看板建築をリノベーションしたカフェがあったが、廃業してしまったのか、なんとなく荒んだ雰囲気が……

 

 

この廃屋っぽい看板建築の向かいにあるのが

 

 

 

 

 

 

 

 

家系ラーメンの名店「光家」である

 

僕が訪れたときは、先客は3人しかいなかったが食べているうちに満席になり、食べ終えて店の写真を撮影するころには、何人かの待ちが出ていた

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらのラーメンは、こってりとした最近主流のタイプではなく、サラッとしたスープの昔の家系を彷彿とさせるものである

 

食べログには、あっさりとした家系と書いているレビュワーを見かけるが、決してさっぱり味ではなく、あくまでもコッテリではないだけで、けっこうしっかり味がついており、昔の家系からクセを抜いたような味わいだ

 

 

したがって、ご飯がほしくなり追加注文してしまった。そして、この店で嬉しいのは

 

 

 

 

 

 

 

 

サービスでゆで卵が一個ついてくることであろう

 

家系ラーメンのスープには、個人的には味玉や半熟ではなく、このゆで卵がいちばんマッチしていると思う

 

(写真のゆで卵は、箸で割ったので、ちょっとギザギザに……)

 

 

 

 

 

 

 

 

ーーと、お目当ての家系ラーメンも食べたので、《旧・東海道細見記》おしまい

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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旗の台 中延 女子高生《品川の端っこ訪記》前編

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それにしても、今年の秋はどこに消えたのだ。いきなり寒くなりすぎだろファッキン!

 

 

という前おきはともかく

 

先日、東急線の旗の台から荏原を抜けて大井町のゼームス坂までママチャリで散策した記事をあげた

 

しかし、そのときは明確に取材するという意思のない“ついで”の散策だったため、いつものGRを持っていなかったので、ピンチヒッターのデジカメでの撮影だった

 

 

ここ十年ぐらいのデジカメなら、どんな機種でもそれなりに写ってはいるが歪曲収差など、やはり不満な点も多く今回ちょっと近くまで行ったので、そのついでに撮影し直してきた

 

という、自己満足のための記事であるため、そのときの記事に掲載した写真と多少物件が“かぶる”ことをあらかじめお断りしておく

 

 

 

 

 

 

 

 

旗の台の駅のすぐ近くにある

 

危険 「//////落下物注意//////」

というワーニングが貼られたヤバそうな看板建築の脇からはじまる三間通り商店街がある通りは、旗の台、荏原、中延、二葉、東大井の各商店街を抜けて大井町まで3キロあまり続いている

 

途中、第二京浜のあたりで途切れなければ、おそらく日本でいちばん長い商店街だったであろう。ということは、そのときの記事で書いた

 

 

この商店街は、戦前から続いているものらしく、ほとんどは戦後に建てかえられてしまっているが、戦前型のモルタル外壁の看板建築や出桁造りの商家がわずかに残っている

 

 

 

 

 

 

 

 

なかでもお気に入りは、このファサードが半円形になった看板建築で、いつまでも残しておいてほしい物件である

 

 

この3連の看板建築のすぐ先には……

 

 

 

 

 

 

 

 

出桁造りの商家が残っている。僕が高校生のころは、他にも残っていたような記憶があるのだが、現在はこの建物と大井町駅付近にある豆腐屋の2棟だけになってしまった

 

この建物、よく見るとブリキの波板で覆われた横の部分に、なにやら木のつっかえ棒のようなものが並んでいる。おそらく長屋形式だったのに、隣家が取り壊され「ぶった切られた」物件だと思われる

 

 

先日の散策では、うっかり見逃してしまったが……

 

 

 

 

 

 

 

 

よく見るとこの建物もファサードから後ろが一気に下がる片流れの建築様式で、しかも鰻の寝床のように奥行きがある古い商家に特有の造りをしている

 

おそらく店舗部分を新しくしてしまったために、こんな残念な姿になってしまったのだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洋服直し「理想郷」という店もかなり古い看板建築で、珍しいことに、木製の窓枠がまだ残されている

 

 

前回の散策では、すでにかなり薄暗くなっていたため、路地裏には入らなかったが、今回は時間に余裕があるので、ちょっと散策してみた

 

すると、味わい深い平屋の住宅があった。まるで墨東にあるような建物だが、べつにこの手の建物は東京のDEEP EASTだけのものではなく、品川や世田谷にもたくさんあったが、建てかえられてしまっただけのことだ

 

 

荏原から馬込方面に向かう通りにも……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような渋い物件が残っている。下の写真の建物などは、やはり片流れの建物を何度も改築して、このような形状になったものと思われる

 

継ぎはぎ状になったサイドビューがすごいが、これも近ごろ東京で多発している“隙間なく並んでいた隣の建物”が解体されて更地になる……という、不治の病によるものである(記事に掲載したこの通りのものだけでもすでに3例目だ)

 

 

 

 

 

 

 

 

戦後型だが、戦前の「十字型看板建築」の様式を継承した建物があった

 

かつてのものと比べると真ん中の縦線が太いのは、そこに2階のテナント用の階段があるためで、これはなかなかのアイデアである。もっともそのテナントの「BAR はまなす」「スナック でこ」は、どう見ても営業していなさそうだが……

 

 

 

 

 

 

 

 

あっ、女子高生が。あわててシャッターを切ったので画面が傾いてしまった

 

看板建築と女子高生というテーマは、ちょっと追求したくなるテーマである。誰かモデルになってくれないかしらん

 

 

 

 

 

 

 

 

古書店に立ち寄ろうとしたら、その店からも女子高生が出てきた

 

 

 

 

 

 

 

 

あんまり気にしていなかったが、どうやら近くに女子高があるようだ。それにしても、古書店から出てくるとは、なかなかやるな、と少し感心する

 

このコースは、第二京浜をわたった先にもう1軒、そして大井町の飲食街の真っ只中、ゼームス坂の手前にも、昔ながらの古書店が残っている

 

 

 

 

 

 

 

 

メインストリートに戻り、しばらくゆくと第二京浜に出てしまった

 

今回は前回向かった大井町ではなく、90度北方向にある中延のアーケードを目指す

 

 

品川のこのあたりには、この旗の台、荏原のほかにも、荏原中延、戸越公園、かの有名な戸越銀座、そして都内随一のアーケード武蔵小山の商店街があり、まさに買い物天国と言ってよいだろう

 

また町自体の雰囲気も下町に近く、池波正太郎が移り住んだのもうなずける

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからゆっくり歩いて15分もゆくと、中延駅前のアーケード商店街に出る。余談だが、この写真の左端にチラッと窓が写っている建物は、ブック○フである

 

念のため覗いてみたがやけに小さな店で、とくに買うものはなかった。まあ、すぐ近くの武蔵小山には、大きなブック○フと、中古カメラがむやみに高いハード○フがあるが

 

 

あの手のリサイクルショップは、知識のない人間がヤフオクなどを参考に価格を決めているのか、頭の悪い値付けが多すぎて、実勢中古価格と乖離しすぎていて、なんとかならんのかと腹が立つよね

 

 

ということで後編では、この中延のアーケード周辺を散策してみよう

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

 

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中延 荏原中延 武蔵小山 《品川の端っこ再訪記》後編

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旗の台の三間通り商店街を東へ。荏原の先、第二京浜の手前で左に曲がってしばらくゆくと……

 

 

 

 

 

 

 

 

中延駅前のアーケード商店街に出た

 

アーケードのアーチには唐草模様が施され、なんとなく洒落た雰囲気を演出しているが、並んでいるのは見るからに昭和な感じの店ばかりである

 

 

この商店街には思い出がある。今からふた昔ほど前、アーケードの中ほどに潰れたCD屋の商品をまとめてバッタ買いして、一律700円ぐらいだったかで売っているバッタ屋があった

 

店内の棚には、少し時代遅れのビデオ(DVDじゃないよ)とCDがギッシリと詰まっていた。そのCDのなかに、CD創世記頃の定価3200円時代の洋楽がズラリと並んでいる棚があった

 

 

並んでいたのは、キングのユーロロック・コレクションの初期物で、当時はほとんどが廃盤になっており、新宿の某ユニオンなどで凄いプレミア価格で売られているものが多数含まれていた

 

もちろん、有り金すべてを叩いて買った。で、気に入ったやつだけコレクションに加え、残ったやつは某ユニオンに売ったら買った値段の数倍の金額に

 

 

もっとも高額で売れたのは、マイク・オールドフィールドの名作「チューブラーベルズ」(エクソシストのテーマ曲で知られる)のエンジニア、トム・ニューマンの「妖精交響曲」で、7000円以上の買取り価格だった

 

その後、再発ブームがあったので、廃盤が高値を呼ぶことはなくなったが、同様の美味しい思いは、池袋の中古店でも経験している

 

 

なんだ「せどり」じゃん、と思われるだろうが、この場合は聴いてから趣味に合わないものだけ処分したので、はじめから商売目的のせどりではない。余談たが妖精交響曲は、その後別の中古屋の処分棚で発見して、1000円で買い直した

 

 

 

 

 

 

 

 

中延のアーケードは、予想どおり年配者の買い物客が多く、寂れているわけではないが、かといって横浜橋のアーケードのような賑わいもなく、ごく普通の商店街であった

 

そしてもちろん、アーケードの商店街に特有の“建物のディテールがよく見えない”という特徴を備えているが、少し奥にすすむと

 

 

 

 

 

 

 

 

「小林仁成堂」という、クラシカルなファサードの薬局がある

 

今年になってからこの商店街は3回ほど訪れているのだが、この店が開いているところを見たことがない。もしかしたら廃業してしまったのかもしれない

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和の雰囲気のままの時計屋があった

 

時計屋も豆腐屋、床屋と並んでサバイバル率の高い商売である

 

 

あまりバンバン売れるような商品ではないし、おそらくある程度需要があり、なおかつ単価が高いために、数を売らなくても成り立っている……と、想像しているのだがどうだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

アーケードの出口側には、小料理、鮮魚仕出し「魚善」という看板建築の渋い店があった

 

おそらく仕出しがメインなのだろう。店頭の商品は、ほとんど売り切れて、ガラガラだった。ということは、美味しい店だと類推できる

 

 

 

 

 

 

 

 

アーケードを抜けても商店街は続いている

 

というか、このあたりは、前回記したように、旗の台、荏原、中延、荏原中延、戸越公園、戸越銀座、武蔵小山など多数の商店街があり、どれもがママチャリ圏内なので、地元の主婦にとっては天国のような場所だ

 

 

それにしても手前の看板建築リノベーション物件の「にんじん&藍」と並びにある「いちご整骨院」の名前が意味不明である

 

 

 

 

 

 

 

 

アーケードを抜けた先は「共栄会」、左に曲がると「昭和商店街」という名称のようだ(この写真は昭和のほうね)

 

どうやら商店街主催の「なかのぶジャズフェスティバル」というイベントが行われるようで、あちこちに横断幕が下がっていた

 

 

 

 

 

 

 

 

共栄会の商店街は、すぐに終わってしまったが、味のある看板建築があった

 

どうやらひとつの建物に、2軒のテナントが入っていたようだ。左側の店の看板には「スポーツ日本」の文字が確認できるので、まちがいなく新聞販売店だったようであるが、右側の店が謎である

 

 

 

 

 

 

 

 

店舗入り口の左側に小さなウィンドウをふさいだような痕跡と、入り口のドアの上にある電灯から、おそらくなんらかの飲食店だったのではないだろうか?

 

それにしても、強引な組み合わせである。あっ、2階の手すりがかわいいね

 

 

このあと三宝カメラに寄り道してから学芸大学駅に行く予定だったので、荏原中延駅のほうに向かう

 

 

 

 

 

 

 

 

わりと賑やかな荏原中延の駅前を抜ける。この駅は、東急が地下化したため、武蔵小山と同様に少し駅前の風景に違和感を感じてしまう

 

賑やかな商店街も、しばらくゆくと、このような廃業してしまった店が並んでいた。窓が小さなファサードのデザインからして、けっこう古い建物だと思われる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この通りも以前は、もう少し賑やかだったような記憶があるのだが、閉店してしまった店舗がかなり目だっていた

 

「紅谷」という和菓子屋は、なんとなく老舗の風格が漂っていた。長崎かすてらではなく“かすていら”というあたりに、老舗のプライドを感じされる店である

 

 

 

 

 

 

 

 

商店街の出口のアーチを見て、ようやくこの商店街が「荏原中延サンモール」という名称だということに気がついた

 

 

 

 

 

 

 

 

商店街の最後の店は、トンガリ物件の派手なカレー屋だった。あっ、よく見ると街灯に「中一商店街」という文字が!

 

うーん、気がつかないうちに、別の商店街に入っていたようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

荏原中延のサンモール商店街から戸越銀座商店街の途中に出て、左に曲がってしばらくゆくと、商店街が終わるところが中原街道で、街道をわたり5分も行くと武蔵小山のアーケードがある

 

中原街道を左に曲がったあたりに、シトロエンの専門店があり、その裏側を旧中原街道が通っている

 

 

 

 

 

 

 

 

今の中原街道と旧中原街道の分岐点には、おそらく武蔵小山に残ったもっとも古い建物がある

 

 

それがこの座敷箒、スダレ店「松本商店」だ

 

軒先テントの上の看板部分は、よく見ると緑青を吹いた銅板なので、昭和初期の建物だと思われる。隣の看板建築も、戦前型のバランスの建物なので、こちらも当時のものではないだろうか?

 

 

ようやく武蔵小山に到着。約2時間の散策であった。このあとアーケード内にあるブック○フ、駅の反対側にある古書店を見たあと、中古カメラ屋の三宝カメラを冷やかして学芸大学に向かった

 

 

 

《品川の真ん中再訪記》おしまい

 

次回から、このブログはじまって以来初の横須賀を散策する。ほとんど下調べもせずに出掛けたわりには、数多くの奇跡的な物件を発見したのでお楽しみに

 

 

 

 

 

 

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田浦の侘び寂びアーケード《横須賀懐旧 ぶらPIAS》①

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今回からこのブログはじまって以来の横須賀ぶらり旅である

 

横浜の隣なのに、とくに用事もないし、生まれてこのかた横須賀なんて5回ぐらいしか訪れたことがない場所だ

 

 

横須賀でいちばん記憶に残っているのは、小学校低学年のころ母親の友達の家を訪ねたことだろう。なぜ記憶に残っているかというと、その友達というのが、ショートボブの髪が似合うほっそりとした知的な美人だったからである(原田知世みたいな感じ)

 

その女性からは、なんとも言えないよい香りがして、幼心に、嫁にするならこんな女性にかぎる。と固く決心したのに、いまだに独身なのはなぜだろう。きっと原田知世みたいな女性に出会っていないからかな

 

 

 

 

 

 

 

 

という、どうでもいい前おきはともかく、京浜急行の特急に乗れば横須賀なんてあっという間で、旅情など味わう前に京急田浦に到着していた。感覚的には飯能とあまり変わらなかった

 

ここで横須賀のある三浦半島の地形について、あらかじめ説明しておこう

 

 

三浦半島というのは、基本的に真ん中に低い山脈があり、町は海岸沿いに点在している。と、理解しておけば間違いない

 

半島という狭いロケーションに町が点在しているため、どの町も、かなり深い谷戸地形にあり、町同士は基本的に分断されている。したがって、隣の町に行くにはトンネルを抜けるか、山を越えて行くしか方法がない

 

 

今回訪れた田浦も葉山、逗子の隣町だが、葉山や逗子に行くためには山越えしか手段がない。これは山脈の向こう側にある逗子にかぎったことではなく、田浦でも京浜急行の田浦と、JRの田浦ですら隣同士の谷戸にあるので、同じ駅名なのに、トンネルをくぐらないとたどり着かない

 

ちなみに、葉山とのあいだの山に森戸川源流コースの散策ルートがあるが、そのあたりは三浦半島でもっとも森が深く山も険しいそうで、ピクニック気分で行くとひどい目に合うそうだ

 

 

 

 

 

 

 

 

京急田浦駅に沿った道(国道16号線。ここでは横須賀街道と呼ばれる)には、昭和30年代風の町並みが続いていた

 

しかし、この写真の先右側(横浜方面)に向かうと、すぐに山に分断され町は終わってしまい、トンネルを抜けると追浜の町である

 

 

 

 

 

 

 

 

追浜方面の際まで行ってみたが、色褪せたファンタの看板が素敵なこの廃業した店から先には、数軒の家があり、その後ろには山があるだけであった

 

ところで今回、わざわざ横須賀くんだりまでやって来た理由は、最近ブログを通じてやり取りのある方が、この町にある皆ヶ作地区の赤線跡地を紹介していて、それがものすごく魅力的だったので、衝動的に見たくなったからだ

 

 

その赤線跡地は、赤線マニアのあいだでは知らぬ者とてない有名な物件らしい。残念ながら、もっとも有名な銅板葺きの立派な看板建築は、数年前に取り壊されて、くだらないマンションにされてしまったそうだが……

 

 

赤線跡地は、駅からさほど遠くない近場なので、そこに行く前に、その方が紹介していた、やはり魅力的な商店街を見にゆくことにした

 

 

 

 

 

 

 

 

駅前のメインストリートである横須賀街道沿いは、片側アーケードの商店街になっているが、駅の周辺を除いてシャッター街寸前の様相を呈していた

 

それでも駅が近いせいか、けっこうひと通りは多かった

 

 

 

 

 

 

 

 

この立派な雁木風の片側アーケードの屋根が備わるヤマザキショップの隣に……

 

 

 

 

 

 

 

 

田浦のアーケード商店街「仲通り商店会」がある

 

入り口を見ただけで、なんとなく寂れた雰囲気が伝わってくる侘びた佇まいに、いやでも期待が盛り上がる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこには予想にたがわず、ほとんどシャッター街と化した商店街が続いていた

 

アーケードの入り口を入ってすぐのところには「さがみや」という店がある。この建物がいちばん古い物件のようで、暗くてよく見えなかったが、おそらく銅板葺きの看板建築ではないだろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

その先には、営業中なのに廃墟感が漂う京急ストアがあった。とても現役の店とは思えない荒廃した雰囲気が素敵な店だ

 

アーケードは全長100メートルもない感じだが、僕が訪れたとき店を開けていたのは、この京急ストアと……

 

 

 

 

 

 

 

 

1980年代ちっくな喫茶店「らんぶる」の2店舗だけで、あとはシャッターが閉まっているか、半分だけ開いているという寂れっぷりだった

 

アーケードの奥にすすむと、かつては何かの店があったとおぼしき場所に、新築の住宅が建っており、アーケードに一戸建てというシュールな光景を見せていた

 

 

 

 

 

 

 

 

この「テナント募集」の建物は、造りからして歯医者などの町の医院だったような雰囲気で、だとしたら病院すら廃業に追い込まれるという、終末的な情況にあることになる

 

 

 

 

 

 

 

 

アーケードには、かつての繁栄を偲ばせる薄いピンク色をしたスズランのようなかわいい街灯が並んでいるのが、かえって寂れた雰囲気を助長していた

 

アーケードの周囲も商店街になっていたが、ひっきりなしに客が出入りしていたのは、角にあったセブンイレブンだけで、あとは、あまり客の動きはなかった

 

 

もっとも、けっこうな割合で飲食店があるので、夕方から夜にかけては、もう少しひと通りがあるのかもしれない

 

 

 

 

 

 

 

 

アーケードの裏手にあった建物。注目すべきは「ホルモン焼 根岸家」ではなく、建物の左右に掲げられた「スナック ロロ」という看板であろう

 

このロロという語感が、なんとなく赤線があった時代の空気の名残のような気がして、店の様子をうかがってみるが

 

 

 

 

 

 

 

 

まだ昼過ぎなので、当然のように店は閉まっていた

 

 

店の入り口の軒先テントを見て気がついたが、「スナック ロロ」ではなく正しくは「スナック ロロー」のようだ。ロロー。どういう意味なのかまったく想像がつかない店名である

 

 

このスナックロローの隣にある路地は……

 

 

 

 

 

 

 

 

赤線廃止のあとに残った田浦に唯一の歓楽街のようだが、昼過ぎなので、やはり店はみんな閉まっていた

 

 

 

 

 

 

 

 

もう、のっけからDEEPで寂れた雰囲気に、この町の魅力にどっぷりとハマってしまったが、こんなものはまだ田浦の実力のほんの片鱗にすぎない

 

さて次回は、もう少しアーケードの周囲を散策して、今回の第一目的地である皆ヶ作に向かうことにする

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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皆ヶ作の赤線地帯に入る《横須賀懐旧 ぶらPIAS》②

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前回の記事で紹介した寂れきったアーケード「仲通り商店会」は、駅前から横須賀街道を少し歩いた先にあった

 

これから紹介する物件は、それより手前、駅前からすぐのところにある路地の風景である

 

 

ここで京急田浦の立地を説明すると、駅前には横須賀街道(国道16号線)が通っているが、街道をわたった先は警察署と小学校しかなく、その裏手はもう山で、斜面にあるわずかな住宅と通り沿いにしか建物がない

 

つまり通りをわたっても路地がないのだ。駅を出て最初にあらわれる路地が、小学校の脇にある寂れた雰囲気の湾曲した道だ

 

 

路地の入り口には中華料理屋があり、どこにでもある地味な商店街かと思いきや……

 

 

 

 

 

 

 

 

いきなりこんな先制パンチが!

 

わわわ、なんだこの横須賀の錆び王は。曲がってすぐの場所に、建物の全体が赤錆びたバラックの平屋が目に入った

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いったい、いつ頃から放置されているのだろうか。左側の白い(白かった)看板には、かろうじて「ひさご」「おにぎり」の文字が読みとれる

 

建築様式的に、昭和30年代といった雰囲気なので、おそらく赤線が現役の時代からここにあるのだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

この路地の商店街は、かつては歓楽街だったものが、いったん寂れきってしまい、そのあとカタギの店に代替わりしたような雰囲気だった

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらのあまり活動してそうに見えない(土曜日だから休みなのか?)NPO法人の建物は、怪しい雰囲気と建物の角につけられたアールから、かつてはその手の店が入っていたような雰囲気である

 

 

ここで町の成り立ちをプロファイルすると……

 

そもそもこの田浦は、海軍工廠造兵部本館があった軍都の歓楽街として発展してきたという歴史がある。要するに軍隊があるところには、慰安施設が欠かせなかったわけだ

 

 

ところが軍隊はなくなり、規模に劣る自衛隊となってしまい、三業地として再出発したが時代の流れで、そういった需要が激減してしまったため、現在のように寂れてしまった……という経緯だと考えられる

 

 

 

 

 

 

 

 

あまり現役には見えない床屋があった。この建物も床屋にしては、やけに窓が小さく出口が2ヶ所あるという怪しい造りだ

 

この路地を抜けたところに、アーケードの出口から続いている商店街がある

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらも方側アーケードを備え、以前は賑やかだったことが想像できるが、ひと通りも少なく現在はなんとなく寂れた空気が漂っていた

 

 

その先の十字路にある建物には……

 

 

 

 

 

 

 

 

現在は美容室が入っており、その隣の建物にはインド料理屋が入居した看板建築があるが、どちらもかなり怪しい物件である

 

そして、その向かい側には、こんな物件が

 

 

 

 

 

 

 

 

なんと、壁面に赤線の象徴とも言えるタイル張りのある雑居ビルが!

 

 

うーん、怪しい。怪しすぎる。しかし、いくら怪しくとも現在目に入る店は、カタギの商売に入れ替わっていて、風俗関係の店などは見あたらなかった

 

というより、2階から上が使われているようには見えない

 

 

かと思いきや……

 

 

 

 

 

 

 

その並びに、こんなかわいい看板の「スナック 順子」という店がポツリと残っていた

 

 

このビルの角を左に曲がり、しばらく行ったところにある路地を入ると

 

 

 

 

 

 

 

 

そこが皆ヶ作の赤線地帯の核心部である

 

こちらの建物は、現在は住居として使用されているが、建物の造りからして、どう見ても三業地の名前の由来になった待合か料理屋といった風情がプンプンと漂っていた

 

それにしても、門柱のかわりに溶岩というのが凄いよね

 

 

こっそり玄関を覗くと、そこにはこんな素敵な意匠が

 

 

 

 

 

 

 

 

な、なすび「🍆」!!

 

よく見ると門柱の上にはミニチュアの鬼瓦。うーん、素晴らしい

 

 

細かいところに目をやると屋根を支える部材とか、ベランダとかじつに凝った仕事がなされていて、この大工レベルの高さは、おそらく昭和30年代以前のものではないだろうか?

 

この建物の向かい側にも

 

 

 

 

 

 

 

 

出桁造りのどう見てもカタギとは思えない建物が、現在は住居として、ひっそりとたたずんでいた。普通こんな路地裏に出桁造りの建物などはないぞ

 

 

このような状況から、おそらく往年は、この一角すべてが色街だったものと類推できる

 

前回も書いたが、この赤線地帯の入り口には数年前まで銅板葺きの素晴らしい看板建築が残っていたが、取り壊されてクソつまらないマンションにされてしまった

 

 

建物がある路地から、さらに裏路地に入ったところに、今回この田浦までやって来た最大の目的物がある

 

 

 

 

 

 

 

 

裏路地に入ると、いきなりバラックの二階建ての倉庫が出迎え、そして、その隣には……

 

 

 

 

 

 

 

 

おおっ、思わず変な声が出るような、素晴らしい看板建築様式のカフェー建築が!!

 

 

といったところで……続く。次回は奇跡のカフェー建築を

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

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奇跡のカフェー建築2棟《横須賀懐旧 ぶらPIAS》③

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それにしても今年はいきなり寒くなったよね。ここ数年、秋というものを、あまり実感することがなく、夏からいきなり冬になってる、とは去年も書いた。やはり四季から二季になっているとしか思えない

 

 

 

という前おきはともかく……

 

相変わらず写真が山のようにストックされているため、これはようやく秋の気配が見えはじめたころ取材した記事である

 

 

 

前回掲載した元料理屋もしくは、待合風の建物の裏路地の突き当たりを左に曲がったところには、こんなバラック建築があった

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、このバラックの隣には、僕がわざわざ横須賀までやってきた最大の目的物が聳えていた

 

「聳えていた」これは大げさな表現ではなく目的物は、車1台がやっとという細い路地には、まったく釣り合わない意表を突くような大きさで、文字通り聳えていたのだ

 

 

その目的物とは都内およびその近郊では、とっくの昔に壊滅した看板建築の様式で造られたカフェー建築にほかならない。えっ、前おき長い?

 

いや、それぐらいもったいつけたくなる凄い物件なのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

思わず「うわっ」と声が出そうになって、呆然と見上げてしまった。あまりにも見事なカフェー建築である

 

この建物が、いつの時代に建造されたのかはつまびらかではないが、モルタル外壁の凝った造りは、まさに戦前の看板建築と同じクオリティだ

 

 

 

 

 

 

 

 

アーチ状のモチーフを多用したデザインは、どこかヨーロッパの香りさえ漂っていた

 

しかし、その重厚きわまりない表面は、見せかけの看板で(だから藤森氏は看板建築と名付けたのだが)、建物のサイドを見ると、安っぽいブリキの波板というのも戦前型看板建築と同じ造りである

 

 

 

 

 

 

 

 

大げさな建物のわりには、入り口のドアは目立たないように、ちんまりと造られている。ドアの周囲にはフェイクのアーチがあり、その横には、塗り潰されたかつての店のプレートらしきものがあった

 

数年前までは現役のバーだったようだが、現在は、廃屋化しているようにしか見えず、使われている形跡がないので、取り壊されてしまわないか心配な物件だ

 

 

これだけでもかなり熱いのに、その斜め向かい側には……

 

 

 

 

 

 

 

 

さらなるこんな物件が!

 

この写真を見ると、前述した裏路地の狭さがわかっていただけると思う。ご覧のとおりの道幅しかなく、軽自動車が通り抜けるのも厳しい幅だ

 

この建物は、住居として使われているので、残念ながら丸窓やアーチ型の窓が、オリジナルの姿から改変されてしまっているが、建物が残っているだけでもありがたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの窓も凝った造りで窓枠は矢柄になっていた。やはりスペインかイタリア南部にあるようなデザインの建物である

 

かつては2階部分は別の店だったのか、外部にとりつけられた階段

と、独立した入り口があるが、現在は使用されていないためなのか、誰かが上らないように、植木鉢が並んでいた

 

 

それにしても、こんな見事なカフェー建築に住めるとは、なんという羨ましさ!

 

 

 

 

 

 

 

 

1階の丸窓がある部分にはアールがつけられ、その上の部分が外側に飛び出したようなムダに凝った造形が素晴らしい

 

ほとんど誰もとおらないような裏路地で、写真を撮りまくりながらひとり興奮していたら、近所のおじさんが通りかかってドキッとする。ここまで来て不審者として通報されるのは勘弁だ

 

 

しかし、こんな見棄てられたような建物を見て興奮していたら、十分不審者にはちがいないが……

 

この素晴らしい看板建築様式のカフェー建築の隣には、このあたりが歓楽街だったころの名残の店が1軒だけ残っていた

 

 

 

 

 

 

 

 

ハート型のデザインが魅力的な「BAR 一・二・三」である。おそらく「ひふみ」と読ませるのだろう

 

いまだに営業しているのかは謎だが、よくぞ残っていたと誉めてやりたい物件だ。それにしても、漢字で「一・二・三」って!

 

 

いやー、素晴らしいものを見た。という余韻に浸りながら、当然のように、その周囲も散策して、赤線の痕跡がないか探したことは、言うまでもない

 

あっ、今写真を見て気がついたけれど、写真の奥の左側に写っている入り口が白く塗装されている建物も、冷静に観察すると飲み屋の造りではないか。興奮のあまり、現地では普通の住宅だと思って無視してしまった

 

 

田浦に向かう途上の京急車内で、いろいろ検索してみたが、この2棟の建物以外は、ほとんど取り壊されてしまい、あまり痕跡が残っていないとのことであったが……

 

 

 

 

 

 

 

 

少し先には、こんな戦前っぽい平屋があった

 

注目すべきは、その平屋がある高台から伸びるぶっとい排水パイプのほうであろう。パイプは不自然に地面に突き刺さり、そこは崖下のすごく狭い路地……

 

とどめは手前にある井戸の跡。ああ、これって明らかに暗渠じゃん

 

 

しかし、こんな基本的なこともカフェー建築を見た興奮で、すっかり見落としてしまっていた

 

しかし、この平屋の左側にあった物件は、さすがに見落とすことはなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

入り口の部分を外側から見えないように囲った不自然な造りこの古民家は、明らかに料理屋か待合のたぐいであろう

 

しかし、暗渠の前にあるということは、この料理屋が現役だったころは、店の前をせせらぎが流れる粋な店だったのかもしれない。なんと素敵な風景だろうか

 

 

この並びには、そのほかも昔は商売をしていたであろう建物が散見された

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この墨田区京島にあるような戦前型の建物も改装されてしまっているが、べんがら風に塗装された2階の手すりや、建物の形状からして仕舞屋、つまり以前は何らかの商売(もちろん、そっち系だろう)をしていたものと類推できる

 

そして、その近くにも……

 

 

 

 

 

 

 

 

この建物と奥の物件も、やはり墨田区京島にあるような造りの建物で、2階の戸袋を見るまでもなく、シャッターが閉まっている場所と玄関部分に、かつては店舗があったのだろう

 

京島と違うのは、高層ビルやスカイツリーが目に入らず景色がすっきりしていることか

 

 

しかし、前述のとおりカフェー建築や、料理屋だったような建物は、ほとんど取り壊されてしまっており、これ以上は何もなさそうなので、タイル張りのビルがあった通りに戻ると……

 

 

 

 

 

 

 

 

この一見、単なる商売をやめただけのように見える建物は、閉じたシャッターの脇に注目してほしい

 

よく見るとシャッターと同色のブルーで塗装された、まったく無意味な円柱のような装飾があるではないか

 

 

円柱とタイルはカフェー建築の特徴のひとつだが、はたしてこの廃屋は?

 

 

ーーと、2回にわたって皆ヶ作の赤線跡地を散策して、これでお腹いっぱいかと言えばそうでもない

 

というか、やはり予想どおり残された遺構はあまりにも少なく、なんとなく食い足りない気持ちだったので、今度は皆ヶ作地区とは反対側の逗子との境目の山のほうを見にゆくことにした

 

 

ちなみにこの散策で見ようと思っていた物件は、これでおしまい。つまりここからは、得意のアドリブだ

 

そして、今回もそのアドリブがこのあと、予想だにしていなかった奇跡の町に出会うことになるなどとは、このとき僕は、思ってもみなかったのである

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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船越二丁目界隈の古民家《横須賀懐旧 ぶらPIAS》④前編

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それにしても寒い。寒いにもほどかある!

 

 

 

いい加減にしやがれファッキン!!

 

​​​昨日などはちょっと用事を済ませて、さっさと帰宅する予定が、あまりにも寒くて、立ち寄る予定はなかったのに、身体を暖めるためだけにドトールに入ってしまった

 

という前おきはともかく、ちょっと困った事態に陥っている

 

 

僕は1回の取材というか散策で、平均して150~200カットぐらい撮影している。あっ、これいいな。と思った被写体は、ロングで1枚、アップでも1枚、そして左右から、横画面、縦画面ぐらいは押さえておく

 

したがって、ついこないだの品川のはじっこの2回ぶんの記事でも実は軽く100カットは押さえているわけだ

 

 

ところが、この横須賀の場合は、あまりにも興味深い被写体が多く、撮影カット数はじつに403カットもあるのだ

 

これをいつもの調子で記事にしてゆくと、今年じゅうには終わらないのではないか?

 

 

というおそれが出てきた。しかし、1回の記事にあんまりたくさんの写真をいれてしまうと、ただでさえ重いアメブロのこと。なかなか記事を読みこまず、いらない広告にミスタッチしたり、あげく自分に「いいね」をつけるイラっとする事態になってしまう

 

もちろん、あまり重くならないように、写真は300KBぐらいに圧縮しているのだが、それが20や30などのカット数になると、やっぱり重い……

 

 

そこで今回は、写真の数が多いので、前後編にわけて掲載する

 

 

ということで、スタート!

 

皆ヶ作の旧赤線跡地を散策したあとは、横須賀街道に戻って駅の反対側を見にゆくことにした

 

ただし、駅周辺の反対側は、あからさまに山しかなく出口すらない状況なので、街道沿いの片側アーケードをすすみ東逗子方面に抜ける県道方面に向かった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

駅前から離れると横須賀街道沿いにある片側アーケードに並ぶ店のシャッター率が上がり、この町が危機的状況にあることを、ひしひしと感じざるを得ない(下の写真の煙草屋は営業していた)

 

ところどころに大きなマンションが建ってはいるが、この町には、首都圏のどこの駅周辺でも見かける全国チェーンのマックやドトールはおろか、ファミレスすら存在していない

 

 

商店街で見かけたコンビニがセブン1軒だけというのも首都圏では考えられないことだ。僕がよく利用している駅などは、駅から徒歩圏内に、セブンだけでも5軒もあり、こないだ1軒潰れたぐらいである

 

 

これは、画一的なつまらない風景に成り下がっていないという利点はあるが、見方をかえれば全国チェーンの店が、出店を見合わせるほど市場がない。とも理解できる

 

 

 

 

 

 

 

 

その一方で、まだ頑張っている昔からの店もあるが……

 

 

 

 

 

 

 

 

このように廃業してしまった店が、やたらと目立つ

 

この商家などは、出桁造りからわかるように、おそらく昭和初期の建物であろう。つまり、このような老舗ですら商売が成り立たなくなっているのだ

 

 

ネットで検索したら戦後間もないころの仲通り商店街の写真があったが、現在の様子からは想像もできないぐらい、賑やかな通りだったことがわかる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

横須賀街道の一本裏の道は、並んでいる建物の様子から、古くからの商店街だったものと類推できるが、ほぼすべての店舗が仕舞屋になっていて、営業している店は皆無であった

 

 

前述のとおり、この田浦の町は軍都として成立し、その後は米軍、自衛隊などの存在を前提に発展したが、世界的な軍縮の流れによってその需要は激減

 

かといって他に依存するものがなく、また、横須賀の人口減少と三浦半島という他の町と隔絶した環境が、その発展を阻んでいるようだ

 

 

今まで取り上げてきた、このような衰退傾向が強い町には、たいてい古民家リノベーションなどにより、町に新しい流れを作ろうという動きが見られたが(あの飯能ですら)、残念ながらこの田浦では、そういったものは一切見られなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

この町に受けた印象は、今まさに“ゆるやかに滅びつつある町”というものだ

 

 

 

 

 

 

 

 

横須賀街道の裏道は、だいたい見終えたので、東逗子に続く県道に向かう

 

 

 

 

 

 

 

 

奥に見えている京浜急行のガードのある道が、東逗子まで続く県道である

 

この道は、あまり広くもないのに、この近くに山を越えて逗子、葉山方面にゆく道が他に存在しないため、常に渋滞気味のようだ

 

 

京浜急行のガードをくぐると……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんだか凄いものが目に入った

 

 

 

 

 

 

 

 

あまりの凄いヤレっぷりに、一瞬ギョッとするが、どうやら以前は洒落た白い外壁の美容院だったようだ

 

この並びには、三軒長屋の看板建築などもあったが、ことごとく廃屋化していた

 

 

この先、逗子方面にも点々と戦後型看板建築などが並んでおり、昔は商店街だったような雰囲気が残っていた

 

 

 

 

 

 

 

 

おそらく戦前からのものと思われる平屋の染物屋があった

 

田浦の町は、三浦半島という特種な環境なので、町が谷戸にあり、その背後はことごとく山である。こうした立地は、当然多くの湧水があることにほかならず……

 

 

 

 

 

 

 

 

この染物屋のすぐ脇にもこのような小川が流れていた

 

もしかしたら、この川で反物を洗っていたのかと、想像がふくらむ。もちろん当時は、こんな野暮なコンクリート護岸などされていなかったであろう

 

 

皆ヶ作の記事で暗渠の写真を載せたが、そういえば仲通り商店街のアーケードの裏にも明らかな暗渠があり、この地域にはこのような小河川がいくつもあったようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

東逗子に抜ける県道は、染物屋の先で大きく右にカーブしていた。その角には廃業してしまった看板建築が3棟並んでいた。しかもそのうちの2棟は平屋である

 

県道は曲がった先から……

 

 

 

 

 

 

 

 

いきなり急勾配の上り坂になっていた

 

ここで引き返してもよかったのだが、いつもの好奇心でもう少し先まで見に行ってみることにした

 

 

後編に続く

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

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横須賀線の田浦駅に移動《横須賀懐旧 ぶらPIAS》④後編

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ーー後編

 

染物屋の先で県道は大きく右に湾曲し、そこから先は急勾配の坂道になっていた。この道のほかには逗子方面に抜ける道がないのか、上下線とも渋滞気味である

 

 

坂を登りはじめるとすぐ左側の山頂に、山を切り開いた公園があるらしく、長い階段が続いていたが、興味がないのでスルーして坂を登ってゆくと……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かなり古そうな古民家があった。壁面に新建材が張られてしまっており、せっかくの風情が台無しになっていた

 

しかしこれで、この道沿いも古くからの町だということは間違いないだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

その先に木造平屋の看板建築があった。こちらも先ほど見かけた物件と同じように、戦後間もないころ建てられたような雰囲気である

 

僕のカメラには水準器が備わっている。この写真は、画面をほぼ正確に水平にして撮影した。つまり、この写真が斜めになっているのではなく、こんな急峻な坂道だ、ということがわかると思う

 

 

 

 

 

 

 

 

看板の文字は、とっくの昔に消されてしまったようで、どんな商売をしていたのか、まったくわからない

 

入り口の左側に窓があることから、焼き鳥屋とか豆腐屋のように対面販売をしていたような造りである

 

 

県道の反対側には、昭和30~40年代風の古い建物が並んでいた

 

 

 

 

 

 

 

 

そのうちの1軒が妙に気になる物件だった

 

坂道の上から見ると、このようにどこにでもありそうなブリキの家であるが、この建物を坂の下側から見ると

 

 

 

 

 

 

 

 

うわっ! これは危ない。驚いたことにガレージ(?)の2階部分が、たった1本の細い柱で支えされているではないか!

 

現在は無住のようだが、1本の細い柱で支えられた上には、明らかに居住スペースがあり、これでは地震どころか、少し強い風が吹いたらグラグラ揺れる不安定さだろう

 

 

うーん、田浦恐るべし

 

 

この坂道には、ほかにも興味深い物件が散見された。たとえば

 

 

 

 

 

 

 

 

この最近造られた「船越防災隧道」というトンネル。これは冒頭の回で記した横須賀の地形的特徴である「深い谷戸」に関係している

 

僕らのように首都圏近郊に住んでいる者は、谷戸といえば通常、三方を低い丘陵に囲まれた凹んだ土地の風景をイメージする

 

 

そんなの当たり前じゃん、と思うだろうがこの横須賀では、その凹んだ部分が異常に細長く奥に深いのだ。この船越あたりは大したことがないが、このあと訪れることになる田浦でいちばん深い谷戸などは、幅が数百メートルしかないのに、奥行きは3キロ近い

 

そこまで谷戸が深くなると、緊急時、たとえば台風や地震などによる崖崩れで、谷戸の入り口が塞がれてしまうと、住民はライフラインを断たれ完全に孤立化してしまう

 

 

そんな危機感から横須賀市は、隣の谷戸と連絡するこのようなトンネルを、あちこちに造っているそうだ

 

 

このトンネルの近くに、もうひとつ興味深い物件、いや物件ではなく“風景”を見かけた

 

 

 

 

 

 

 

 

なんと、驚いたことに山を切り崩して、ニュータウンの造成が行われていたのだ

 

田浦ときてニュータウンといえば、廃墟マニアなら知らない者はいない、首都圏にいちばん近い廃村「田浦ニュータウン」を連想するだろう

 

 

田浦ニュータウンというのは、今から20年ぐらい前、それこそ谷戸のいちばん奥まった不便極まりない土地にあった町を、丸ごと買収してニュータウン計画をぶち上げた挙げ句、開発会社が倒産、その後発電所に転用しようとした計画も頓挫……

 

 

そして、谷戸の奥深くに50戸あまりの住宅が、廃墟になったまま放置されているという、都市伝説のような本当の話である

 

ここで、さらに説明すると長くなるので興味があれば「田浦ニュータウン」でググってみてほしい。閲覧注意の画像が山のように上がっている(YouTubeには、廃墟でセクシーポーズなどという、わけのわからない動画まで貼られていた)

 

 

 

ーー話を戻す

 

坂道を登ってゆくと、やがてトンネルがあり、そこを抜ければ東逗子に出るが、東逗子に用事はないので、来た道を引き返して京急田浦駅方面に向かった

 

 

というのも駅の近くには、これも以前の記事で触れた海軍工廠造兵部本館という、歴史的に貴重な建物が残っている(公開はしていない)のだ。が、しかし、その建物は東芝ライテックという会社がそのまま使用しているが……

 

 

 

 

 

 

 

 

これしか見えないぞファッキン!

 

入り口の門柱と左側の建物のあいだから、チラッと見えているのが海軍工廠造兵部本館である。よく見ると工場の入り口の門柱も海軍時代のものを、そのまま使用しているようだ

 

あとでネットで調べたら、とうやらもっとも古い明治末期に建造された工場の建物だけは、塀の外側からも見えるそうで、いつものノーリサーチが裏目に出たかたちになってしまった

 

 

今回も、例によって「観光」にならないように、事前に調べたのは、赤線地帯のだいたいの位置ぐらいで、文字通りノープランなことは、言うまでもない

 

そのおかげで、後半も大事なものを見落としているが、それと引き換えに未知なる土地を探検する楽しみが多々あったので、今後もこのポリシーは守りたいものだ

 

 

しかし、ここで大きな問題があった

 

文字通りノープランなので、まだ日没にはかなり時間の余裕があるけれど、もうこの場所に見るべきものがないのだ!

 

うーん、これからどうしよう……京急に乗って横須賀中央にでも行くかな……などと、頭を悩ませていたら

 

 

 

 

 

 

 

 

くだんの東芝ライテックの真横のバス停に、横須賀線田浦駅行きのバスがやって来た。これは神様の「汝、横須賀線田浦駅に参るべし」という指令にちがいない

 

こういうときは、深く考えず反射的に行動するにかぎる(だから失敗するんじゃ……)ので、パスモをピッとやって、バスに乗りこんだ

 

 

ほとんど年寄りしか乗っていないバスのシートに座り、タブレットでGoogleマップを開くと……

 

横須賀線の田浦駅は馬鹿ばかしいことに、1キロくらいしか離れていなかった。しまった、歩いて行けばよかった。と、思っても後の祭り

 

 

バスはトンネルを抜けて、次の谷戸にさしかかった。ほかにすることもないので、ぼんやり車窓から通り過ぎる町を見ていたら、思わず「えっ」と、声が出るようなものが目に入った。それは……

 

なんとなく乗りこんだバスだったが、この気まぐれのおかげで、次の目的が見つかったのだ。もし、京急の駅に戻って横須賀中央に行っていたら、これから先は、まったく違った展開になっていたであろう

 

 

 

 

 

 

 

 

あっという間に横須賀線の田浦駅に到着したら、にわかに信じられないような駅前風景だった

 

な、なんにもないじゃん! これが正真正銘、横須賀線田浦駅前である。駅前ロータリーにはマックやドトールはおろか定番のコンビニすら、いや、1軒の店すら存在していなかった

 

 

しかし左前方に、なんとなく店のような建物が見えたので行ってみると

 

 

 

 

 

 

 

 

駅前通りに唯一あった店は「鈴木家」という居酒屋だった。どうやらこの町では、コンビニより居酒屋の需要が大きいようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

あっ、よく見ると「鈴木家」という屋号が浮き彫りになった壁面には、酒徳利が埋め込まれているようだ

 

横須賀線田浦駅前通りには、この居酒屋以外の店もちらほらあったが、休みなのか廃業してしまったのか、僕が訪れたときは1軒も営業していなかった

 

 

商店街もなにもないまま、駅前通りは30メートルも行かないうちに、横須賀街道(国道16号線)にぶつかり終わってしまった

 

 

 

 

 

 

 

 

国道の先には「旅館ふじや」という建物があったが、どう見ても営業しているようには見えなかった

 

首都圏に暮らしているひとならご存じのとおり、国道16号線というのは、産業道路なので、とにかく交通量が激しい道だ。それはこの横須賀も例外ではなく、ろくな歩道もないくせに、ひっきりなしに車がビュンビュン通って危ないことこの上ない

 

 

とりあえず信号が変わるのを待って、国道の反対側に回って横浜方面を撮影する

 

 

 

 

 

 

 

 

国道沿いには、このように店舗が並んでいるが、どれも廃業してしまったようで、なんとなく荒廃感が漂っていた

 

 

驚くのはトンネルの上の変な場所に家が建っていることで、不便ではないのだろうか?

 

道路の脇には、カクカク曲がった階段があるので、どうやらこの階段を登って家に行くようだが、これでは車はもとより自転車もたどり着けないぞ

 

 

前述のとおり、横須賀の谷戸は幅が狭く奥に細長い。この横須賀線田浦駅がある谷戸などは、その最たるもので谷戸は駅前の広場の幅しかないのに……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どこまても続いているかのように、細長く住宅が連なっていた

 

しかも、その入り口に建っていた平屋は、明らかに最近のものではなく、下手すると戦前のものである可能性が高い古い建物で、このような不思議な立地の住宅街は、初めて見たかもしれない

 

 

次回は、この谷戸を見たあと、いよいよバスの車窓から見つけた信じられないような物件に向かう

 

 

 

と、この先、まだまだ長いので《横須賀懐旧 ぶらPIAS》はいったん終了。この続きは別のタイトルでお届けする

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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旧・甲州街道の古民家《夕暮れ調布さんぽ》①

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横須賀市田浦の散策は、当初、京急田浦駅で終わるはずが、予想外の展開になり横須賀線の田浦駅まで移動してしまった

 

そして撮影した枚数は、このブログはじまって以来、最高の403カットである。したがってすべて出し尽くすのに、どんなに絞っても、おそらく10回はかかるものと思われる

 

 

これでは見ているほうも書いているほうも、いい加減飽きると思うので、つい最近取材した記事をあいだに入れる

 

 

 

 

***

 

さて、今回訪れたのは、東京の多摩地区がホームの僕が、かつての武州多摩郡のなかでは、珍しくあまり縁のない調布である

 

 

現在は調布ばかりが知られているが、かつてのこのあたりは、調布という地名ではなく甲州道中(街道)の布田五ヶ宿として知られていた

 

 

 

 

 

 

 

 

国領駅で降りて旧甲州街道に入ると、こんな古民家が目に入る。かつての甲州道中の面影を残す貴重な建物である

 

 

現在は調布市、調布駅など「調布」というのがこのあたりの代表的な呼称になっている

 

 

ところが、江戸時代に調布などという地名は使われておらず、このあたりは布田五ヶ宿と呼ばれていた。五ヶ宿とは、国領、下布田、上布田、下石原、上石原の5つの宿場の総称である

 

調布は現在の甲州街道沿いにある町では、かなり大きな町であるが、江戸のころは、五ヶ宿合わせて日野と府中のあいだぐらいの小さな宿場だった

 

 

参考のため、幕末より少し前、天保年間の甲州道中の宿場の規模を記すと……

 

内藤新宿が2377人、府中が2762人、日野が1556人、横山(八王子)が6026人と、八王子が新宿の3倍近い人口で、もっとも大きな町であった

 

一方で布田五ヶ宿は、いちばん大きな下石原ですら448人と、お話にならない小さな町で、街道沿いに家屋が並ぶ以外は、田んぼや畑ばかりの場所だったのだ

 

余談だが、下石原が新選組の近藤勇の出身地で、勇の実家があったのは、調布飛行場の端のあたりである

 

 

 

 

 

 

 

 

出桁造りの立派な主屋と土蔵が並んでいるが、どちらもシックな黒い建物に、赤い屋根が映えて、カッコいいなあ。と思わず見とれる

 

江戸時代は、場末と言われてもしかたない町だった調布は、現在は、すっかり寂れた日野とは対照的に、かなり大きな町に変化し、それは現在も進行中である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのため調布駅の周辺は再開発が著しいが、この国領から布田あたりでは、まだ往時の面影がわずかに残っている……はずだ

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが……

 

このあたりに来たのは、かなり久しぶりであるが、以前に通ったときよりも、明らかに更地が増えており、あちこちが歯抜けになっていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、よかった。お気に入りの建物はまだ残っていた

 

この不思議ななたちをした建物は、おそらく古い建物を取り壊すさい土蔵を残して、新しい建物の一部として利用したものと思われる

 

かなりユニークな外観だが、なかなかよいセンスでまとめられていると思う

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

周囲が更地にされてしまい「ドール」という飲み屋が、ポツリと取り残されていた

 

しかし、そのおかげで狭い間口に奥に長い鰻の寝床スタイルの、昔の区割りのままだということがわかって興味深い

 

 

向かい側には、戦前型の特徴である「十字型看板建築」があった

 

建物本体を見ると戦前型とは異なり、全体がモルタルで固められている。ところが建物の造り自体は、片流れの戦前型と同じなので、もしかしたら戦前型を改装したのかもしれない

 

 

ところで、この看板建築に入居していたテナントは、廃業してしまったようだが、近くで見てみると……

 

 

 

 

 

 

 

 

どうやら「石黒春美堂」という巻物や古書画の修復専門店だったようで、いかにも歴史が古い町にありそうな店である

 

 

 

 

 

 

 

 

この鮮魚、仕出しの「布田屋」もいいねえ。この店はきっと美味しい仕出し屋にちがいない

 

 

 

 

 

 

 

 

京王線で国領の次の布田駅の周辺は、どうやら再開発の真っ只中のようで、あちこちで建物が取り壊され、更地だらけという悲惨な状況になっていた

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、ここでも東京オリンピックがらみの道路の拡幅工事が行われていて、僕が知っている以前の風景とは、まったく様子が違い戸惑う

 

この廃業してしまったような「おたい」という焼鳥屋は、道路拡幅のため更地にされた場所にポツリと佇んでいた。画面の左端にチラリと写っているのは土蔵である

 

 

この先に、昔から気になっていた古民家があるのだが、はたして残っているのか不安になってきたが……

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、よかった。どうやら無事に残っていた

 

ーーが、その周囲は更地だらけで、もしかしたらこの建物も取り壊されてしまいそうで、だとしたら今回この調布を訪れたのは正解だったようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

ということで、今回は国領、布田界隈の写真を掲載したが、次回は、ようやくタイトルにある調布駅の周辺に移動する

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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