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新子安のケチャップと漁師町《ニッチな横浜散策》①

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何度も苦言を呈しているが、なかなか「いいね」ができなくてイラっとした

 

最近いらねえ動画広告とか多すぎなんだよまったく。そんなクダラねえことする前に、やたらと重いのとエラーの多発なんとかしやがれファッキン!!

 

 

 

という前おきはともかく

 

今回からまたしても横浜を散策する。といっても、おそらくわざわざ観光にゆくひとなど、まず誰もいないであろうマイナーなエリアである

 

したがってランドマークタワーとか、赤レンガ倉庫とか、港の見える丘公園とか、元町とか、そんなコジャレたものは一切出てこないし、お洒落な雰囲気などカケラもないことを、最初に断っておく

 

 

さて、前回の横浜散策で歩いた鶴見がえらく気に入ったので、今回は、鶴見区の隣の神奈川区の繁華街である大口の商店街を散策する

 

大口の商店街は、京浜急行の子安駅とJR横浜線の大口駅のあいだを結んでいる商店街で、大型商業施設を除くと商店街としては、鶴見駅のものよりも、賑わいでは勝っているのではないだろうか 

 

 

しかし、ここでいきなり本丸に乗りこむのは、僕の流儀ではない。まずは外堀から埋めてゆくために、大口の商店街とは、京浜急行の線路の反対側である海のほうから見てみる

 

ーーが、その前にまずは、なんとなく商店街のある子安駅の隣駅、新子安駅の様子を見に行ってみると

 

 

 

 

 

 

 

 

南口の駅前には、いきなりこんなとぐろを巻いた邪魔くさい道があり、度肝を抜かれる

 

これはなんだ。と、Googleマップを開くと、呆れたことに、よりによって駅前に産業道路の出口があるようだ。なぜこんなところに……

 

 

さらにマップをよく見てみると、この新子安駅は、京急とJR両方の駅があるくせに、商店街が存在しないようだ

 

不可解なのは、賑やかな商店街のある子安には京急の駅しかなく、JRが通過してしまうことで、なんのために商店街もない新子安駅には停車するのか、まったくその理由がわからない、てか、バカじゃねえの

 

 

などと理不尽なJRの所業にプンプンしながら、国道15号線(第一京浜)をわたって、なんとなく歩いていたら

 

 

 

 

 

 

   

 

こんな道標が立っていた

 

なにか宿場もしくは街道がらみの道標が、と思ってよく見ると、そこには「ケチャップ発祥の地」と記されていた

 

どうやらこの場所で、我が国初のケチャップが作られたようだ

 

 

Wikipediaによると明治29(1896)年、清水與吉という人物が創業した清水屋が、明治30(1903)年に、日本で初めてケチャップを製造した。とある。一瞬、新選組にいた清水卯吉と勘違いしてしまうような名前である

 

そのころのケチャップは、あまり美味しそうな色ではなかったらしく、醤油と同じ感覚のウスターソースに比べて、なかなか普及しなかったそうだ

 

 

ちなみにケチャップのルーツは、中国南部や東南アジアの魚醤で、当初は魚やキノコ、野菜などから作っていた。つまりケチャップはニョクマムや日本のしょっつるの遠い親戚とも言える

 

トマトケチャップが発明されたのは、もちろんアメリカだが詳しいことはわからない。ただ、最初に文献に登場するのは1700年代末期なので、少なくとも「鬼平犯科帳」の時代には、すでに存在していたのではないだろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

第一京浜は、やたらと交通量が多いだだっ広い道路なので、清水屋があった明治の昔ならともかく、商業的には郊外の国道などと同じ条件に当てはまり、車で行けるマックやファミレス以外の店は、ほとんど壊滅してしまったようだ

 

時おり廃業した古い商家だった建物が見られるが、ひとの温もりといったヒューマンな要素は一切なく、殺伐とした風景が続いていた

 

 

新子安駅の周囲には、ファミマと数軒の店舗が残るだけで、あとは買い物をするような店が、ほとんど見られなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうやら、かつては京急の線路に沿った通りに、商店街らしきものがあったようだが、ほとんどマンションに建て替えられてしまっており、まるでゴーストタウンのような雰囲気だった

 

マップを見ると、あとは駅にくっついて中型のショッピングモールがあるだけで、駅の反対側の内陸部には……

 

 

 

 

 

 

 

 

なぜか老舗っぽいこの1軒の和菓子屋と、数軒の飲食店があるだけで、あとは店など一切見当たらず川越の隣の南大塚のほうが、何倍も栄えている

 

 

あまりに見るべきものがないので、あきらめて隣の子安に移動することにした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子安の駅の南口も、似たりよったりの寂れた雰囲気だったが、駅の出口の前には蕎麦屋があり、その横にある行き止まりの路地には、バラックが並んでいた

 

気合いを入れてバラックを撮影しようと思ったら、なにやら作業服を着た工務店風のひとたちがやってきて、工事をはじめたので撮影はあきらめて、第一京浜の向こう側(つまり海側)を見にゆくことにした

 

 

前述のとおりだだっ広い国道なので、なかなか信号が変わらずイラっとさせられる

 

 

 

 

 

 

 

 

このように自動車道が優先という、高度経済成長期の理論がいまだにまかり通っているような野蛮な国は、自動車がないとどこにも行けないアメリカのようなど田舎はともかく、先進国では日本ならではの特徴である

 

国道の反対側には「横浜コヤスホール」という、まるで古民家のような造りをした謎の建物があった

 

 

僕はこういうのが気になるタチなので、その場でググってみると、なんてことはない葬儀社のようだ。ホムペに「NHKで紹介された」と書かれている意味がよくわからないが

 

 

 

 

 

 

 

 

第一京浜沿いは、明治創業のケチャップ屋があったことからわかるように、昔からの道筋のようで、戦前のものらしき出桁造りの古民家をリフォームした物件があちこちに残っていた

 

鶴見の海沿いは、工業地帯だったので米軍によって焼夷弾をバラまかれ壊滅してしまったが、ひなびた漁港だった子安はスルーされたようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わずかに残った出桁造りや戦後のバラック建築の建物は、どうやら元は商売をしていた形跡があったが、ラーメン屋が1軒残っているほかは、すべて廃業してしまったような気配だった

 

 

それにしても、このバラックの継ぎはぎ感は、かなりアートの領域に入っている。廃屋かと思って見とれていたら、いきなりオバサンが出てきて驚く。なんだ廃屋じゃなかったのか

 

国道のすぐ脇はもう海で、子安漁港がある

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

子安漁港というものがあることは知っていたが、まさか国道のすぐ脇に船溜まりがあるとは思ってもみなかった

 

船溜まりからバラックが見えたので、おそるおそる見にゆくと

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、これで横浜の市街地では珍しい風景で興味深いが、どう見ても入っちゃダメそうな空気が流れていたので、いよいよ本命の大口商店街に移動することにした

 

大口商店街も、何度も書いている横浜の商店街の特徴である片側アーケードなので、散策するのが楽しみだ

 

 

このとき僕は、大口にはあまり期待しておらず、まあツマラナイ商店街なら、前後2回ぐらいの記事にまとめて、サラッと流すか……

 

と、いたって気楽に考えていたのだが、大口商店街が、あのDEEPな鶴見に勝るとも劣らない味わい深い場所だとは、知るよしもなかったのである

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

 

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新子安駅から大口商店街へ《ニッチな横浜散策》②

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子安漁港をチラッと見たあとは、第一京浜をわたり直して京急の子安駅に戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

ん、これはCBRか? HONDAの最強クォーターバイクNSRでお馴染みレプソルカラーのバイクの後ろに見える隙間が、京急子安駅である

 

こちらは新子安駅とは異なり、ちょっと古めの看板建築もあり、多少駅前のような雰囲気がないこともないが、やはり海側は寂れていた。というか、だだっ広い国道が通ってしまったので、町が壊滅したのだろう

 

 

駅の内陸側にゆくには、地下通路を抜けなければならない。という面倒くささも、ひとの流れを分断する要因として見逃せない

 

 

 

 

 

 

 

 

狭い地下通路を抜けた先には、京急子安駅の出口が見えている

 

 

しかし、階段を上って地上に出ると最初に目に入るのは、商店街ではなく……

 

 

 

 

 

 

 

 

相応寺という古刹の山門である。山門の横から商店街がはじまるが……

 

京急子安の駅前なのに、子安の文字はどこにもなく、いきなり「大口1番街」という商店街なのが、今一つ解せない。なにしろ大口駅などは、はるか1キロぐらい先にあるのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

京急のガード下には、昭和40年代からさほど変わっていなさそうな飲食店がズラリと並んでいた

 

一方、大口1番街の入り口にあるのが

 

 

 

 

 

 

 

 

いきなり「ラッキー商会」という中古カメラ屋なのが、なかなかマニアックである

 

ネットで検索すると、昭和30年代ごろの看板が残っている写真がヒットするが、僕が訪ねたときには、残念なことに、取り外されてしまったようで見当たらなかった

 

 

こちらは、横浜ではお馴染みの片側アーケードになっていて、それだけでも強く昭和の雰囲気を感じさせた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このようなロケーションの場合、シャッター街というのが定番化しているが、どの店も営業しており、シャッター街のような雰囲気ではない。かといって栄えているようにも見えなかった

 

訪ねた時間が早すぎて、まだ商店街が活性化する時間ではないのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

またしても中古カメラ屋があった。横浜は、どういうわけか中古カメラが多く、それも京急沿線にはやたらと中古カメラ屋があるような印象である

 

思わずなかに入ったが、ややマニアックなクラシックカメラから、

最新のデジタルカメラまで、わりとバラエティーに富んだ品揃えだ

 

 

まあ、今はカメラなど買っている場合ではないのだが、3万円のライカのdⅢには、激しく惹かれるものがある。黒ボディなら買っていたかもしれない。シルバーでよかった

 

 

 

 

 

 

 

 

大口1番街は、ここでいったん国道1号線に分断されてしまう

 

つい先ほど京急子安駅の反対側にある第一京浜、つまり国道15号線からやって来たばかりなのに、十数分歩いただけで国道1号線に出てしまうのが、ものすごい違和感があった

 

 

川崎駅の近くなら、国道1号線から15号線まで歩いたら軽く30分以上かかるのに、これはどういうことだ

 

ーーと、いつものGoogleマップでたしかめてみると、どうやら子安付近は、国道同士がもっとも接近している場所で、その間隔は、わずか250メートルほどしかなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

国道1号線の先も、大口1番街は続いていた、というか、ここから先が商店街の核心部である

 

だだっ広い国道1号線をわたり商店街の続きを……と思ったら左手に、とても気になる建物が目に入った

 

 

 

 

 

 

 

 

ステンレスのようなシルバーの鉄板で造られた看板建築である

 

この写真は、激しく車が行き交う国道1号線の流れが途切れた一瞬をみはからって、ダッシュしてシャッターを切ったら、偶然日傘の女性が写りこみ、まるでウィリー・ロニやロベール・ドアノーが写したバリ風の写真になった

 

オレって天才ではないだろうか

 

 

という与太話はともかく、えらくぶっきらぼうな建物だが、よく見るとファサードの上部が、僕が名付けた「凸型看板建築」の様式になっていた

 

余談だが、僕はアンリ・カルティエ・ブレッソンの写真は、アザトクてあまり好きではなく、パリを写した写真家としては、ウィリー・ロニが好みで、写真集も持っている

 

 

さらにおもしろいのは狭隘な立地に、無理やり建てられたらしく……

 

 

 

 

 

 

 

 

斜め前方から見ると、このように僕の大好物のトンガリ物件であることたろう

 

よく見ると、トンガリの2階部分が出っぱっているのが気になる。ここの室内の様子は、いったいどうなっているのだろうか?

 

 

うーん、大口なかなかやるじゃないか、と思いながら、念のためこの建物の裏側も見にゆくと

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとも渋いブリキとモルタルのカタマリがあるではないか

 

建物自体は、どうということもないが、ブリキの雨戸と錆びついたドアが味わい深い。しかもこの細い隙間は、どう見ても暗渠にちがいない

(調べてみると、やはり暗渠だった)

 

 

 

 

 

 

 

 

などと寄り道ばかりしていると、いつまでたっても散策がすすまないので、大口1番街に戻ることにした

 

 

国道1号線から先は、ひと通りの少なかった京浜子安の付近とは違って、けっこう買い物客が多く、ということは、やはり子安側は、若干寂れているのだろう

 

 

ということで、いよいよ次回は大口1番街の核心部に迫る

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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大口1番街の裏側を見る《ニッチな横浜散策》③

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京浜子安駅前からはじまる大口1番街商店街は、子安のあたりは寂れていたが、国道1号線をわたると、けっこう賑やかな雰囲気になってきた

 

どうやらここから先は、大口1番街てはなく「大口通商店街」という名称に変わるようだ

 

 

横浜にある商店街は、興福寺商店街や藤棚商店街、横浜橋商店街など、あまり駅に依存していない商店街が多い

 

しかし、そのいくつかは、市電が走っていた場所で、市電廃止以降は、かつての賑わいには遠く及ばない。こちらの大口1番街も、大口の駅前からはじまってはいないのが、いかにも横浜らしい

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、横浜ではアーケード、もしくは片側アーケードの商店街が主流であることは、当ブログで何度も取り上げている

 

このようなアーケード商店街は、雰囲気はよいのだが、僕のような古民家愛好家にとっては、建物が見えないことに、物足りなさを感じてしまう

 

 

大口通商店街が成立したのは、戦後間もないころらしいが、このあたりには、戦前からいくつかの商家があったものと考えられる。というのも、アーケードから横道に入ってみると

 

 

 

 

 

 

 

 

いきなりこのブリキのカタマリと、さらに……

 

 

 

 

 

 

 

 

よもや、これが戦後ということはないだろう。出桁造りの商家である

 

こんな見事な建物も、商店街側から見るとアーケードの屋根が邪魔して古い建物かどうか、よくわからない

 

 

この建物の向かい側には……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな味のある建物が。こちらは戦後、昭和30~40年代といった感じのモルタル外壁の建物だ

 

それにしても、薄汚れたモルタルとラスティカラー、定番のブルーのブリキが織り成すハーモニーが見事である

 

 

 

 

 

 

 

 

この横道の先から、アーケード商店街に並ぶ商家の横側を見ることができた

 

おそらくこの更地には、クソつまらないマンションでも建てるつもりだろうから、この風景が見られるのも今のうちであろう

 

 

この奥に長い鰻の寝床のような商家の造りは、明らかに戦前のものだ。真ん中の建物の屋根からも、そのことが見てとれるが、これを商店街側から見てみると

 

 

 

 

 

 

 

 

予想どおりアーケードの構造物の上に、わずかに建物の上部が見えるだけだった

 

しかし、このわずかに見える部分から、出桁造りの建物に、看板建築をくっつけた建物であることが類推できる。というか、それで間違いないだろう

 

 

調べてみると、この商店街は子安の漁港から続いていた道で、やはり大正時代には商家が並んでいたようだ。それが戦後いち早く復興したことにより、横浜有数の商店街に発展したらしい

 

現在は地元密着型の商店街といった感じだが、かつては横浜線沿線でも有数の繁華街で、町田や橋本方面からわざわざ買い物客が押しかけたそうだ

 

 

この戦前型の商家の斜め前から、大口1番街や、大口通商店街とは、別の組織らしい「あけぼの通り商店街」が分かれており、その角地に建っているのが

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見るからに老舗の鮮魚店「柳三商店」である。人気がある店らしく、客が途切れることがなかった。おそらくよい魚を扱っているのだろう

 

この鮮魚店の角からはじまるあけぼの通り商店街が、じつに素晴らしかった

 

 

 

 

 

 

 

 

というのも、こちらの商店街にはアーケードの屋根がないから、良く言えば風格のある、悪く言えばコキタナイ店舗がズラリと並んでいるからだ

 

一般的な評価だとコキタナイになるのだろうが、僕はあえて「味がある」建物と呼びたい。なんでも無菌室のようにピカピカならいいという幼稚な人間には、なりたくないものだ

 

 

この「甲州屋」などは、真っ白な看板のままだったら、ここまで絵にならなかったであろう。この錆びの筋が、陶器のヒビなどのような景色になっており、侘びた風情を醸しだしている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、このあけぼの通り商店街の店は、廃業してしまった店舗もあるが、ほとんどが元気に営業していた

 

 

そのなかでも感動したのは……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廃業してしまい、隣の八百屋の売り場になってしまった、この「守時計店」の侘びた佇まいであろう

 

黄色い看板に記された「セイコー時計*ユビワ*ガスライター」というカタカナの並びなどは、もはや渋味の域に達しており、錆び錆びのブリキは、山水画のようなおもむきである

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの「ミネギシデンキ」のファサードもいい感じに錆びついており、あけぼの通り商店街というより、錆び錆び商店街の様相を呈していた

 

しかし、この昭和な雰囲気を残したあけぼの通りにも、やはり首都圏に蔓延する商店街の空洞化という病が進行中だった

 

 

次回は、そのあたりのことと、この先で見つけた横浜の秘境と言っても過言ではない、奇跡の一角を紹介しよう

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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大口の秘境・ななしま通り《ニッチな横浜散策》④

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片側アーケードのある大口の商店街のメインストリートから、あけぼの通り商店街に入ると、そこには錆びた商家が並ぶ僕の好みの雰囲気が漂っていった

 

廃業してしまった店もあるが、シャッター街にはなっておらず、残っている店舗は、どの店も元気に営業しているようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

ところが、営業している店舗は通りの南側サイドに集中している感じで、北側に目を転じると、このような更地(駐車場)が……奥に聳えている大きな建物は、相鉄ローゼンである

 

この相鉄ローゼンから先は、それまでの賑やかな様子から一転して

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとなく荒んだ雰囲気にかわってしまう。ズラリと並んだこの看板建築も……

 

 

 

 

 

 

 

 

定休日というより、やはり廃業してしまったようにしか見えない

 

 

それにしても、まともな軒先テントはひとつもなく、そのすべてが薄汚れてひしゃげてしまっているのが、見るからに廃屋のような雰囲気を強調していた

 

この看板建築の向かいには……

 

 

 

 

 

 

 

 

舗装されていない砂利道の細い路地と、戦後の生き残りのような平屋のバラック建築があった

 

屋根の上に、物干し台が備わっているのは、墨田区あたりでよく見かけたが、横浜ではかなりレアな仕様だろう

 

 

 

 

 

 

 

 

あけぼの通り商店街は、この信号のところで終わっているが、通りをわたった先から斜めに切れこんでいる道に続いており、そこは「ななしま通り」という商店街になっている

 

今回の散策も、いつものように必要最低限の下調べしかしておらず「ななしま通り」などという商店街があることは、この場所に来て初めて知ったので、わくわくしながら商店街に足を踏み入れると……

 

 

これが予想をはるかに上回る、まるで秘境のような場所だった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ななしま通り商店街には、戦後型の看板建築が並んでいたが、そのどれもが廃業してしまったような雰囲気で、緩やかに朽ち果てようとしていた

 

並んでいるといっても、それは言葉の綾で、ところどころが歯抜けになり、更地ではないところには、真新しい建物が建てられていた

 

 

しかし、注目すべきは、看板建築がある北側のサイドではなく裏側が下末吉台地の低い崖の下にある

 

 

 

 

 

 

 

 

この崖下の長屋風に並んだ建物群であろう

 

これも一種の看板建築だが、肝心のその看板が折れ曲がって屏風のようになっている

 

 

建物の横の車が停まっている空き地の奥には、低い丘陵に登るための階段があったので、その上からななしま通りを撮影した

 

 

 

 

 

 

 

 

画面左端の車の横に長屋風の建物がある。階段は、右側の建物に入るためのものだが、その肝心の建物は、とっくの昔に廃屋になっているようで、荒んだ気配を漂わせていた

 

この下末吉台地の途中にある荒んだ建物の向かい側に、さらに上に登るための階段は続いていたが……

 

 

 

 

 

 

 

 

階段の先は、完全に藪に飲み込まれてしまっており、どこにも行くことができなかった

 

よく見ると、階段の先には大谷石のしっかりした土台があることから、以前はなにか建物があったのか、それとも建物を建てようと思って階段と土台だけ造って放置されているのか、とにかく不思議な階段である

 

 

せっかく登ったのに、なんにもなかったので、先ほどの長屋風の建物を見てみよう

 

 

 

 

 

 

 

 

もはや、なんの店なのか、よくわからなくなっているが、Googleマップを開くと「小島精肉店 ななしま」という肉屋が入っているようだ

 

どうやらその小島精肉店は、営業しているようだが、その他の店は……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下末吉台地に生えている葛が、建物の上部にまで伸びてきており、どう見ても廃屋にしか見えなかった

 

余談だが、この葛という植物は凄まじい繁殖力で、多摩地域では荒れ地と斜面は、たいていこの植物に蹂躙されている。アメリカでは緑化のため日本から輸入したら、たちまち大繁殖してしまい、あまりの繁殖力に危険外来植物に指定されているぐらいだ

 

 

 

 

 

 

 

 

もっとも、この状態で営業していたら、むしろ不気味かもしれない

 

ちなみに、Googleマップにはまだ、お好み焼き「紫陽花」も隣のお酒・米穀「コンビニエンスさがみや」も記載されている

 

 

調べてみると、このななしま通りも、以前は、大口の商店街に連なる賑やかな商店街だったらしいが、この現状を見ると商店街の運命は、もはや風前の灯火のようだ

 

 

 

 

 

 

 

僕が訪ねた日に店を開いていたのは、この写真の奥に写る「丸杉園茶店」という店とヤマザキデイリーストアだけであった

 

このななしま通り商店街は、この先もまだ続いているが、はたしてその先にあるものは……

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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滅びゆく街角の風景《ニッチな横浜散策》⑤

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京急の子安駅前からはじまる大口1番街を抜けて、国道1号線を越え大口通商店街へ

 

途中で直角に交わるあけぼの通り商店街を抜けると、ななしま通り商店街という、ほとんどが廃屋の商店街に出た

 

 

この日、ななしま通り商店街で店を開いていたのは、精肉店と茶店、そしてヤマザキデイリーストアの3軒しかなく、あとはどう見ても廃屋にしか見えなかった

 

かつては横浜でも指折りの繁華街の外れとはいえ、なにやら諸行無常の響きあり、である

 

 

そのななしま通りを抜けたところに……

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな一角が目に入る。中華料理屋の「黄鶴」は、つい最近まで営業していたようだが、どうやらこの一角が区画整理されるため、廃業に追い込まれたようだ

 

この細い隙間には、かつてびっしりと店が並んでいた。しかし現状はほ、とんどの建物が取り壊され、更地ばかりが目立っていた

 

 

この隙間の奥に、1軒だけ建物が残っていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真の奥がななしま通り商店街である

 

ただ1軒残った商家を見ると、雁木が残っている。そう、この細い隙間は、以前は、アーケードのようになっていたのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

並びと向かい側の建物は、すでに取り壊されて更地になり、この建物だけが、なにかのモニュメントのように屹立していた

 

この細い隙間は、かつて、ななしま通り商店街から綱島街道のほうに抜ける道として、かなりひと通りが多く、この場所も栄えていた

 

 

ななしま通り商店街といい、なんとも寂しい気持ちになる風景だ

 

 

先ほど写真を掲載した中華料理屋「黄鶴」の裏側を見ると……

 

 

 

 

 

 

 

 

驚いたことに、どう見ても暗渠の上に建っている

 

この場所には初回の記事に写真を載せた、子安漁港の船溜まりになっていた足洗川に続いている支流が流れていた

 

 

暗渠の上では白黒の猫が昼寝していた。猫の後ろにあるコンクリートの構造物は、なんらかの護岸跡だろうか

 

中華料理屋「黄鶴」の向かい側にあった、文字が消された看板建築は、二階建ての家と繋がっている

 

 

 

 

 

 

 

 

このおもむきのある古民家の裏側を見ると

 

 

 

 

 

 

 

 

足洗川の支流に架かっていた橋の欄干が、ひっそりと残されていた

 

 

支流は、ここで橋の下をくぐって

 

 

 

 

 

 

 

 

この隙間をすすみ、大口通り商店街を横切って足洗川に合流していたようだ。その途中には、暗渠サインのコインランドリーがあった

 

 

ネットで検索してみると数年前、大口通り商店街で工事があり、そのとき、かつての川跡が取り壊された建物の下から出てきたようで、数十年ぶりに姿を表した川の写真がいくつかヒットした

 

うーん、知っていれば見に行ったのに。残念。

 

 

 

川の近くの角地には……

 

 

 

 

 

 

 

 

ななしま通り商店街が、まだ賑やかだったころの看板が当時のまま残っていた

 

“ななしま”通りだから、商店街は七のつく日が特売日で「七日会」という名称だったことがわかる

 

 

この一角で、どうやら商店街は終わるようで、その先は

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

店舗の部分がガランドウになった2棟の建物と、まだ現役で営業してる床屋があるだけであった。ここでも床屋は、シャッター街でも生き残る。というセオリーが実証されたことになる

 

この先には、商家は見当たらず住宅街になってしまったので、大口通商店街に戻ることにした

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大口通商店街をしばらく歩くと、やがてJR横浜線の大口駅に出るが、この商店街はダイレクトに駅前に出ずに、200メートルほど手前で終わってしまう

 

 

 

 

 

 

 

 

商店街にあった「明文堂」という店には「文明堂」のカステラの看板が出ていて混乱する。店の奥を見ると懐かしいデザインのディスプレイ棚が見えた

 

 

 

 

 

 

 

 

大口通商店街から大口駅前の商店街に出る

 

ご覧のように、アーケードは途切れてしまい、ここからは、雁木がところどころにあるだけで、店舗もまばらになってしまう

 

 

普通、商店街は駅前からはじまるのがデフォルトだが、ここ大口では駅前から離れた場所からはじまっている。前述のとおり横浜には、あまり駅に依存していないパターンをけっこう見かける

 

多くの場合(たとえば横浜橋など)は、かつて走っていた市電が廃止されたのが原因だが、大口には市電が来ていなかったはずなので、なぜこの場所に商店街、それも繁華街が成立したのか不思議である

 

 

 

 

 

 

 

 

大口駅前は、なぜか南国リゾート風の佇まいだった。伊豆や鹿児島じゃないんだから、なんで駅前に蘇鉄の木があるのかいまひとつ理由がわからない

 

横浜経由で帰ろうと思っていたら、ホームに降り立つと八王子行きが入って来たので、アドリブを効かせて菊名経由に変更した

 

 

菊名駅前のブックオフに寄り道しようと思ったら、いつの間にかなくなっていたファッキン!

 

 

 

というところで《ニッチな横浜散策》おしまい。次回からは、再び東京のDEEP EASTを散策する 

 

 

 

追記 昨日のコメント欄にて、通り魔事件があったのは、この商店街か

との質問があった。事件があったのは、まさにこの商店街である。被害者になった女性のご回復を祈ります

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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スカイツリーの見える町《本所業平から小村井へ》①

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今回は、何度も訪れている場所の散策である

 

したがって、あまり新しい発見などなさそうなものだが、このあたりは3回や4回ぐらい訪れたぐらいでは“さわり”程度しかわからない東京east sideでもMOST DEEPなエリアなので、追求しがいがあるというものだ

 

 

地下鉄を降りたのは、スカイツリーのお膝元というか最寄り駅の押上である。土日祝日に、ここで地下鉄を降りるひとのほとんど(95パーセントぐらい)は、ソラマチだかスカイツリーに向かって歩いてゆくが……

 

もちろん僕はスルーして、ほとんど誰も向かわない正反対の出口に向かった

 

 

 

 

 

 

 

 

しかしスカイツリーは、文字通り目と鼻の先にあるので、見上げると嫌でも目に入ってしまう

 

見るからに下町的な風情を漂わせた「定食」という看板が出ている、モルタル外壁の昭和から抜け出してきたような建物の後ろにも、スカイツリーが圧迫感たっぷりに迫っていた

 

 

ところが、スカイツリーのお膝元とはいえ、このあたりは下町気質が強い地域なので、大空から一転、地上に視線を合わせると……

 

 

 

 

 

 

 

 

どこか懐かしい戦後型の看板建築が並ぶ町並みが続いていた

 

商店街の街灯には「業四 市場商栄会」お買い物横丁、とある。業四というのは業平四丁目の略だろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「スーパーいずみ」の看板には“いずみちゃん”なるイメージキャラクターが描かれていてなごむ

 

そう、このような町並みこそ、業平のもともとの姿で、スカイツリーなどは、正直どうでもよく、個人的には、将来にわたって訪れることなど決してないだろう。その前に僕は、高いところが苦手なのだ

 

 

まあ、仮に高所恐怖症ではなくとも、某ネズミの国とかそういった騒がしい場所は大嫌いなので、訪れるつもりはないのだが……

(女性に誘われた場合そのかぎりでないことは、言うまでもない)

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、この業平あたりは現在でこそ、このような下町的な風情のある町であるが、大正から昭和の初めごろは、まるで違った雰囲気の場所であった

 

もちろん僕がそんな時代を体験しているわけではなく、かつてこの場所に暮らした人物が、その様子を詳しく語り残しているので、その談話を抜粋してみよう

 

 

 

 そのころあたしが、浅草の寄席の楽屋にいると、そこに変な人がやってきましてネ。

 

「家賃のいらない家があるんですがね……」

 

「ハハア、そんな家があるかい。それはいったいどこなんだ?」

 

「本所の業平ですよ。六畳と二畳の家で家賃がタダ……どうです?」

 

「タダなら安いや、行ってみようか」

 

 てんで、あたしはすぐさまその家を見に行ったんです。行ってみると、まだ新しい長屋が二十軒ばかりズーッと空いてる。そこで家主に会ってみると、

 

 

 

 

 

 

 

 

「あんた、噺家さんなら入ってくださいよ。そうして陽気なことでもいってくれたら、だんだん人が入ってくれるでしょう。ちょうどいいや……」

 

 というわけで、さっそくそこへ引っこしたんです。その長屋は、震災後すぐ建てられた家なんですが、そこいらは池みたいなところだったのを埋め立てて建てたんもんで、土地がひくいから、ちょっとでも雨が降ろうもんなら、あたり一面海みたいになって、家の中へ水が入ってくる。だから壁なんかには、ちゃんと前の洪水のあとがついてる。とにかくおそまつな急ごしらえのバラックなんですよ。

 

 それでも、震災でみんな家が焼けちゃったんで、しょうことなしに人が入ってたけれども、そのうちに、ほかのところにいい家がどんどん出来たもんだから、みんなその方へ引っこして行っちまった。そこへあたしが行ったわけなんです。

 

 夜になったんで、電気をつけたんですナ。ところが、なにしろまわりが空き家でまっ暗でしょう。そこへぽつんと明かりがついたものだから、蚊のやつがソレッとばかり押しよせてきた。夜なんぞ家の前に立ってみると蚊柱とでもいうんでしょう、あれが立っていて、中へ入って“いま帰ったよ”といったとたんに、ワアッと蚊の群が口の中にとびこんで、口がきけなくなる。だから、いきなり蚊帳の中にとびこんで、そこで口をきいたり、めしを食ったりするんですよ。そうして蚊帳の中から外をみるてえと、蚊の群衆のために向こうは見えませんや。とてもものすごい蚊なんです。

 
 

古今亭志ん生「なめくじ艦隊」より

 

落語家の古今亭志ん生が、昭和の初めごろ業平に住んだころは、このあたりが、じめじめした低地の湿地帯であったことが、はっきりとわかる

 

 

このあと語りは、タイトルの「なめくじ艦隊」の元になった巨大なめくじの襲撃というスペクタクルを迎えるが、興味のある方は、この本は、ちくま文庫で復刻されているので、一読をすすめる

 

志ん生は、この落語の世界そのものの貧乏長屋が、よほど気に入ったらしく、押しも押されぬ大看板になった昭和11年まで住み続ける。いよいよ引っ越すことになった雪の降る2月のある日……

 

 

昼まで待っても引っ越しのトラックがやって来ないことを不審に思った志ん生は、夕方になって、やっと到着したトラックの運転手から、二・二六事件を知らされることになるのである

 

 

 

 

 

 

 

 

この業平四丁目の商店街は、すぐに終わり住宅街になってしまう

 

現在の風景からは、じめじめした湿地帯だった面影などカケラも感じることができなかった。住宅街から、少し広い通りに出ると……

 

 

 

 

 

 

 

 

まるで米軍のノルマンディー上陸作戦用みたいなバスが走っていた。車体の横には「スカイダック」と記されているので、スカイツリーに関連した観光バスかもしれない

 

調べてみると、この上陸用舟艇のようなバスは、日の丸自動車興業が運営している水陸両用車で、実際に水のなかに入るコースがあるそうだ

 

 

スカイツリーを左手に見ながらバス通りを横切って、北十軒川沿いに向かう

 

 

 

 

 

 

 

 

ここからも真正面を見ると、スカイツリーが屹立していた

 

 

このあたりは、繁華街ではなく、町工場の混ざる下町の住宅街的な場所だったので、このバカに大きな塔が出来るまで、さほど大きな建物がなかった

 

したがって西のほうに目を向けると、好むと好まざるに関わらず、必ずこの巨大な塔が目に入る仕組みになっているようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

北十軒川のほとりには、このあたりで唯一であろうバラック建築群が、川べりに張りつくように残されていた

 

オリンピックを控えた現在の再開発の勢いだと、これらのバラックが姿を消してしまうのは、そんな遠い将来のことではないだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

錆びついたブリキの波板に、時おりアルミの構造物混ざるバラックは、川沿いのこの一角にだけ残っているが、通りは閑散としており通行人などは、一切見かけることがなかった

 

そして、このバラック建築のある細い路地からも

 

 

 

 

 

 

 

 

振り向けば、そこにスカイツリーが……

 

 

続く。次回は、さらにこのあたりを徘徊したあと、お気に入りの墨田区京島の町に向かう

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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スカイツリーの町から京島へ《本所業平から小村井へ》②

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押上駅の周囲は、古い商店街と町工場と住宅街が混ざった下町方面ではよく見る佇まいで、これといった特徴が見当たらない

 

ところが、このさして特徴のない町に、巨大な異物が混入したため、皮肉なことに、大きな特徴のある町に変化した。その異物とはもちろん……

 

 

 

 

 

 

 

 

スカイツリーである。もしこの風景に、スカイツリーが存在しなければ、それこそ下町と言わず世田谷区でも杉並区でもおかしくない、どこにでもあるありきたりな都市風景であっただろう

 

ところが、この平凡きわまりない風景に、出来損ないのSFちっくなスカイツリーが加わることによって、唯一無二の特異なビジュアルが出来上がった

 

 

当初は、嫌悪感さえ呼び起こしたこの特異な風景が、この町を徘徊していると次第に違和感がなくなり、ごく当たり前に思えてくるから不思議である

 

どんな劣悪な環境にも慣れてしまうのが、人間の性というものだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたりには、基本的に大きなマンションやオフィスビルがないので、この巨大な異物は、それがある方向にさえ目を向ければ、たいてい連なる建物の屋根の上に突き出ている

 

それにしても、スカイツリーに近すぎて、横フォーマットのフレームに収めるには、フォクトレンダーのウルトラワイドヘリアーとか、ツァイスのホロゴンとか、特殊なレンズが必要だろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ペラペラの一枚板のような平屋型看板建築があった。いったいどんな商売をしていたのだろうか。ちなみに、僕の推測では畳屋である

 

 

ところで、この「保証牛乳」って、以前どこかで見た記憶が……

 

でもこの看板でいちばん気になるのは「南国の香り ラテンコーヒー リオ」であることはまちがいない。というより、こんな製品を見た記憶がないのだが、どなたかご存じないだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

スカイツリーのお膝元とはいえ、路地裏に足を踏み入れると、このような東京DEEP EASTの特徴のひとつである、木造平屋建ての好ましい建物がまだ残っていた

 

 

この木造平屋建ての一軒家という、地価の高騰した都内では、ある意味贅沢な建物の後ろにも

 

 

 

 

 

 

 

 

このようにスカイツリーが、ニュッと頭を出しており、これはこれで、モチーフとしては、なかなか興味が尽きない、というかビジュアル的には、かなりおもしろい

 

しかし、おもしろがって、あんまりこのパターンが続くと、見ているほうも「またかよ」と、飽きるだろうから十間橋通りを京島のほうに向かった

 

 

 

 

 

 

 

 

オレンジに白という、えらく派手な「森永カルダス」と記された牛乳販売店は、下町方面では定番化している店舗部分が潰されて、軽自動車が突っ込まれているお馴染みの風景が見られた

 

 

ちなみに、秋葉原と上野の真ん中あたりに住む仕舞屋住まいの友人は、こんな感じに軽自動車を元店舗部分に突っ込んでいる。車と店舗部分の壁面との間隔は、わずか数センチしかない

 

それがあまりに不思議な光景だったらしく、テレビ局に取材された。残念ながらその番組は見逃したが……

 

 

その隣の味のある看板建築は、ファサードに平仮名で「はかり」とあるのが、なんとも言えないノスタルジーを喚起させる

 

 

十間橋通りは、比較的交通量が多い通りなので、商業地区としては、さほど賑わっていないが、ゆえに、建て替えられてしまった建物が大多数を占めていた

 

それでも古民家的な建物が皆無というわけではなく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ところどころに、このような古い建物も混ざっている

 

 

それにしても、この軒先テントが破れた薬局の「複合トローチ明治」と、強力ワカモトのパチもん臭い「強力チオクタンW」の看板は、いったい、いつの時代のものだろうか

 

調べてみると、どうやらかつて藤沢薬品が滋養強壮薬として売り出していたドリンク剤のようで、検索するとイメージキャラクターらしいソフビのわんこがけっこうヒットする

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらは、またしても一枚板のようなペラペラの平屋型看板建築である

 

このペラペラ看板建築も、非効率的な土地活用の権化なので、都心部からほとんど姿を消してしまったから、これを見るとなんだか嬉しくなってしまう

 

 

 

 

 

 

 

 

十間橋通りをしばらくゆくと、壁面に直接「はんこ」と記された判子屋のところで、細い道がV字に分岐している

 

この細い道をまっすぐゆくと、東武亀戸線の踏切を越えて、以前リポートした「キラキラ橘商店街」に出る

 

 

そちらは、そのときの記事にて詳しく書いたので、今回はキラキラ橘商店街のほうには向かわず、十間橋通りをすすみ東武亀戸線の踏切を越えると、そのときの記事で絶賛した

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重厚な看板建築と、見事な風格を漂わせた「食堂園」という京城料理(どんな料理だ?)店が見えてくる

 

その記事では、十間橋通りの建物を紹介したあと、京島の町の裏路地に入ってしまったので、今回は……

 

 

 

 

 

 

 

 

見落としていた、このローマ時代のような円柱を配した看板建築の右側から小村井方面に延びる道と、明治通り沿いを散策してみることにした

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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十間橋通りから明治通りへ《本所業平から小村井へ》③

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押上の駅を降りて、北十間川をわたって十間橋通りを京島のほうに向かった

 

京島は以前このブログにて、さんざん歩き回ったけれど、墨田区、いや都内で、もっとも戦前の出桁造りの建物が残っている町であろう

 

 

十間橋通りは、押上駅から徒歩圏内ぐらいまでは、すっかり建物が建て替わってしまっており、あまり古民家のたぐいは見当たらない。ところが、東武亀戸線という都内を走るローカル線の線路を越えると……

 

 

 

 

 

 

 

 

以前の記事で紹介した看板建築多発地帯に入る

 

もっとも多く看板建築が並んでいたのは、十間橋通りと交差していた道であるが、こちらの通りもレベルの高い建物が目白押しだ

 

 

まずは前回の記事の最後に写真を掲載した、円柱を配したこの素晴らしいエントランスを持つ看板建築のところから、斜めに小村井方面に向かっている道を見ると……

 

いきなりその入り口には

 

 

 

 

 

 

 

 

こんな見事な五軒長屋の戦前型の看板建築がある

 

おそらく、この並びの2tトラックが停まっている場所にも、以前は、なんらかの古い建物が建っていたものと思われるが、現在は更地(駐車場)にされてしまっていた

 

 

その更地の先にも……

 

 

 

 

 

 

 

 

このような出桁造りの建物があった

 

建物のサイドを見てもわかるとおり、本来なら見えないはずの部分が、隣家が取り壊されてしまったので、このように露出してしまっている

 

建物のサイドのブリキの波板が見えてしまっているのは、残念なことに、都内では定番化している光景である

 

 

この建物も造りを見てもわかるように、かつては商売をしていたか、あるいは居職の職人の仕事場だったような造り、いわゆる仕舞屋になっている

 

この建物の真向かいにも……

 

 

 

 

 

 

 

 

三軒長屋の出桁造りの建物があったが、こちらも商売はやめており、すべて仕舞屋になっていた

 

建物の奥はマンションにされ、手前は更地にされてしまっている。このような戦前の建物は、首都圏からすごい勢いで消滅しつつある

 

 

この三軒長屋の出桁造りの建物のちょっと先には

 

 

 

 

 

 

 

 

うーん、これは文句なくカッコいい

 

やや規模の大きな工場があった。1970年代の東映アクション映画に出てきそうな佇まいの建物である。2階部分を見ると窓ガラスが割れてしまっているので、現在も操業しているのかは、微妙なところだ

 

その先は、あまり古い建物がなさそうだったので、十間橋通りに戻り、前回の記事では紹介しきれなかった建物を撮影しにゆく

 

 

この通りから十間橋通りに戻ると、すぐに目に入るのが

 

 

 

 

 

 

 

 

「かりかねモータース」という、やはり戦前型のような錆びついた看板建築の自動車屋だ。その奥にも古い看板建築の建物が並んでいるが、その上には、スカイツリーが……

 

 

 

 

 

 

 

 

そのすぐ近くにも出桁造りの建物があった

 

これほどまでに古民家という資源があるのに、このあたりでは当たり前のことらしく、とくに誰も見向きもしないし、ほとんどの建物が有効活用されることなく放置されている

 

この建物は、スナックのような雰囲気だが「髪切りや」という看板が出ているので、床屋だと思われる

 

 

十間橋通りは、この建物のすぐ先で明治通りに合流して終わる。その合流地点のすぐ脇にも

 

 

 

 

 

 

 

 

この町(京島、文花)に足を踏み入れてから、もう何十軒見たかわからない出桁造りの商家があった。こちらも商売はやめてしまったような雰囲気で、仕舞屋になっていた

 

撮影していると、ちょうど家のひとが植木に水をあげていた

 

 

だだっ広い明治通りの反対側、この出桁造りの商家の真ん前には

 

 

 

 

 

 

 

 

古いモルタル外壁の看板建築を洒落たカフェにリノベーションしている物件があった

 

明治通りは、都内の大通りには珍しく出桁造りなどの古民家が多く残る通りだが、おそらく道が整備された時代が古いからだろう

 

 

この通りは、関東大震災の復興策として、昭和初年に計画されたもので、戦争による中断があったとはいえ、その基本的な部分が造られたのは、戦前のことである

 

したがって、このような出桁造りの建物が残っていてもおかしくない……とはいえ、やはり都内の重要な幹線道路なので

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

古い建物は、徐々に数が減ってきている。十間橋通りから明治通りに出て亀戸方面にしばらくゆくと、東武亀戸線の小村井という駅の近くに出る

 

小村井は、THE ALFEEの坂崎幸之助の実家である武蔵屋という酒屋があったが、しばらく前に廃業してしまった。僕はこのことを、写真家・田中長徳のブログで知った

 

 

明治通りは、山手線のような環状線の形状になっており、東京の外周をぐるっと巡るように円形を描いている

 

原宿や高田馬場あたりでは、さほど円形だとは意識させない雰囲気だが小村井のあたりでは、あからさまに道が湾曲しており、通りが右に曲がっているところに……

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和30年代のまま残されたような看板建築があった

 

ファサードに文字が浮き彫りにされたような看板建築は、たまに目にするが、ここまで見事な物件は、あまり見た記憶がない

 

 

ちょっと見切れてしまったので、完全には判読できないが、おそらく「餅菓子みのりや 志る古 アイスクリーム」と記されているので、甘味処で間違いないだろう

 

軒先テントが消失しているので、廃業しているとは思うが、取り壊されてしまうには惜しい建物である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのすぐ先の明治通りの脇に、東武亀戸線の小村井駅がある

 

遠くに見えるスカイツリーの色は、加工したわけではなく、上手い具合に夕日に染まったタイミングが見せた偶然である

 

 

今どき踏切というのが珍しいが、ローカル線で本数が少なく、なおかつ2両と編成が短いので、東急の世田谷線と同様に、さほど交通の妨げにはならないのだろう

 

ちなみに、この見慣れない色の東武線は、現在のつまらない色に変えられてしまう以前(昭和30~40年代)の塗装を復刻したもので、失敗例が多いレトロ復刻の数少ない成功例であろう

 

 

小村井駅の周囲は、完全に再開発されてしまった感じで……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

古い建物は、この2軒しか見つからなかった

 

上の写真の真っ黒な出桁造りの建物には、ベタベタと「閉店セール」のポスターが貼られていた。取り壊されてしまわなければよいが……

 

 

居酒屋らしい「えちご」という店も、店先に植木鉢が並んでいて、廃業しているような雰囲気である。隣に建っていた平屋の建物が取り壊されて、ブリキの波板に原爆型トマソンが、見事に残されていた

 

この小村井駅には、これといった商店街すらなく(どうやら明治通りが商店街だったらしい)明治通りを少し下ったところから、東あずま駅に向かう道に、多少の店が並んでいるだけだった

 

 

ということで、京島界隈を中心とした散策を行ったのは、これで3回目であるが、まだまだこの地域に関しては、わからないことだらけ(八広や亀戸なんて、行ったことがないし)なので、さらなる追求をせねばなるまい

 

 

《本所業平から小村井へ》おしまい。次回は、一気に舞台を西に移し、杉並区のマイナーZONEの記事を上梓する予定である

 

 

 

BGM/Astor piazzolla “El viaje”

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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西荻窪の看板建築群《杉並区の郊外を歩く》①

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今回から全3回で、都内でも好きな町ベスト5に入る西荻窪から五日市街道をとおって高円寺まで歩いた記事を上梓する

 

どちらの町も当ブログにて、おそらく十回以上は取り上げておきながら「今さらネタがあるのかよ」と、思うであろうが、このあたりは、思いの外奥が深く、まだまだいくらでもネタが転がっている(当然、重複もあるが……)

 

 

なぜ西荻窪なのかというと、ここ最近、東京西部の看板建築の宝庫だったはずのこの町から、次々と古い建物(西荻デパートなど)がなくなっているので、危機感を感じたからにほかならない

 

 

 

 

 

 

 

 

西荻窪といえば、タイトルバックとこの写真のーー南口にある闇市上がりの「サカエ通り」という飲食街は、西荻を語る上で欠かせない存在であるが……

 

こちらは、さんざん紹介しているから、今まであまり紹介していない南口の中央線ガードに沿った商店街から歩いてみよう

 

 

で、最初に目についたのは、古民家というかなんというか

 

 

 

 

 

 

 

 

うーん、これは凄いインパクトだ

 

歌舞伎町や錦糸町を通り越して、ほとんど東南アジアな佇まいである。てゆーか、3階にある「淑女館」の衝撃は絶大で、熟女マニアなら大喜びといった雰囲気だ

 

 

エントランスの上には建物の名称が記されているが、それによると「フロントビル」

 

ーーって、ビルだったのかよ!

 

 

 

 

 

 

 

 

えらく地味ではあるが、こちらもいぶし銀の看板建築である

 

ファサードには、かすれた文字で、東芝“カラー”テレビと記されている。いや、カラーじゃないテレビが存在したのって、昭和40年代初頭までだよね?

 

 

ということは、理論的に考察すると、この看板建築は半世紀近く当時のまま放置されていることになる

 

 

ところで隣の「新堀ギター」って、都内のどこでも見かけるように思えるのは、気のせいだろうか?

 

 

調べてみると、どうやら気のせいではなく、都内といわず首都圏各地に、すごい数の広告看板があるようだ

 

検索してみると、もともと阿佐谷にあったバラックの教室からはじまったが、社長は大金持ちで凄い豪邸に住んでいるとか「ゆず」の片割れが通っていたとか、いろいろな情報がヒットしたけど、結局よくわからなかった←

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの新鮮な果実「中村屋」も渋い。2階の戸袋に稲妻が記されている看板建築は、昭和30~40年代の建物に多く見られるように思う

 

よく見ると、2階の窓はブリキの雨戸で閉ざされていたので、職住は別なのかもしれない

 

 

ちなみに、この写真はセピアっぽく加工したのではなく、建物と看板自体がセピアっぽく退色していた。つまり、天然セピアである。こういうのもインスタ映えというのだろうか?←何かちがう

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらは全体的に黒ずんで、なんだかすごいことになっている。カビキラーを散布したくなるよね

 

あっ、よく見るとこの看板建築も、何やら顔になってるではないか! 黒い瞳もちゃんとあるし「まぶた」までついている。額には血管が浮き出ているので、どうやらお怒りのようだ

 

 

この先も微妙に商店街は続くが、キリがないのと八丁通り商店街の荻窪八幡宮前の戦前物件は、つい最近記事にしたので、今度は駅の南口から五日市街道に向けて、まっすぐ伸びる道に移動する

 

 

 

 

 

 

 

 

今回、西荻窪に来たのは、この通りの看板建築が、どんどん取り壊されているので、なくなる前に記録に残しておきたかったからである

 

 

ところで西荻窪のメインストリートの商店街は、北口を50メートルほど行ったところからはじまり、ガードを抜けて駅前からこの信号のところまで(全長200mぐらい)は、横浜ではお馴染みの片側アーケードになっており、飲食店がズラリと並ぶ

 

この写真の場所を左に曲がると駅前アーケードの「仲通街」があるが、西荻窪に来るたびに撮影しているので、今回はスルーして五日市街道に向かって、ゆるやかに下る駅前通りをすすんだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すると、さっそく戦前のモルタル外壁の看板建築が何棟かあるが、並びにある建物は、鉄筋のものにされてしまっていた

 

僕が学生のころは、この通りに並んでいる建物のほとんどが看板建築だったような印象だったが、現在はこのように、ところどころに残るだけになってしまった

 

 

上の写真の真ん中の物件は地味だが、フジカラーのロゴが目立つ「春光カメラ」は、ファサードにダイヤ模様を配した見るからに戦前型の見事な看板建築である

 

この並びには、西荻窪のモルタル外壁の看板建築を代表するような見事な建物が残っている

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらは入居しているテナントが、レトロな雰囲気を活かしたリノベーションを施しており、なかなかいい感じに仕上がっていた

 

煉瓦タイルとファサードの「▼▼▼▼」模様が昭和モダンといった雰囲気を盛り上げる

 

 

メインストリートは以前と比較すると、看板建築の数が減少していので、路地裏も見に行ってみると……

 

 

 

 

 

 

 

 

もじゃハウスの戦後型の看板建築があった

 

色褪せた軒先テントの「LOVE」というのが店の名前だろうか? ドアのデザインが洒落た雰囲気だが、このもじゃハウスぶりは、もしかして廃屋?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

西荻の路地裏は、いろいろツッコミどころ満載だった

 

上の写真のちょっとフランスっぽい洒落た色の建物はともかく、白地にピンクの水玉模様って……とか

 

 

建物が取り壊されて更地になった場所が、めちゃくちゃ狭い立体駐車場になっているのはいいとして、なんで同じ車(しかもダイハツ・ハイゼットというあたりがgood)が「親亀の上に子亀を乗せて」状態なんだよ……とか

 

歩きながら、心のなかでツッコミを入れまくらざるを得ない風景が続く

 

 

こういう特徴的な場面もあるが、西荻の路地裏は、西東京地区というよりも、ちょっと下町的なテイストがあるように感じる

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの路地などは、住所表示板の杉並区西荻南という文字がなければ、台東区小島二丁目でもおかしくないような佇まいである

 

あっ、よく見ると西荻南(住所で省略型って!)などという、日本語的に矛盾したクソ地名をつけられる以前の「杉並区大宮前」という古い住所表示が残っているではないか!

 

 

この杉並区大宮前という地名は、昭和44年に杉並区宮前という名称に変更されてしまったので、ということは、この住所表示は驚くべきことに、半世紀も前のものである。よくぞ残っていたものだ

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの路地は、建物単体で見ると下町っぽいと言えなくもないが、サイケデリックな赤とピンクに塗られてしまっており、なんだかシュールな風景になっていた

 

このあたりが、中央線文化というか、なんというか、とにかく独特のカルチャーなノリを感じさせる

 

 

ということで、次回はもう少し五日市街道寄りの風景を紹介してみよう。ああ、今回はなんだか地味だなあ

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

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西荻駅前から五日市街道《杉並区の郊外を歩く》②

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相変わらずダメブロは健在で、動画広告のせいでクソ重いし編集画面から他人のブログや「いいね」に飛ぶとエラー出まくりだぞ。なんとかしやがれファッキンシット!

 

 

 

という、いつもの前おきはともかく……

 

西荻窪駅前からまっすぐ伸びる通りから少し入って裏路地を覗くと、そこは杉並区というより、台東区とか墨田区を彷彿とさせるような町並みであった

 

 

 

 

 

 

 

 

もうひとつ気がついたのは、この町にはやけにもじゃハウスが多いことだ。この床屋は、もはやどんな建物なのか、まったくうかがい知ることができないほどの、もじゃ具合である

 

しかし、ぐるぐるは点灯しているから、営業はしているはずだ

 

 

余談だが、この“ぐるぐる”の正式名称は「サインポール」というが、個人的な嗜好により、当ブログではぐるぐると呼んでいる。関係ないけど西荻の駅の反対側には、ぐるぐるという名前のバーがある

 

 

 

 

 

 

 

 

またしてもサイケデリックに塗装されたモルタル建築があった

 

こちらは、まるでルノーR8ゴルディーニのようなフレンチブルーに塗装されているが、入居しているのが「食事処 多摩家」という、いたって普通の業種なのが、むしろ謎である

 

 

再び駅前から続く通りに戻る

 

 

 

 

 

 

 

 

あまりにも見事な看板の出桁造りのお茶屋「きらく園」は、キラキラ橘商店街のコッペパンの店とテイストが近いが、あちらの店の看板にあった胸をしめつけるような哀愁は感じられず、間抜けな雰囲気を醸し出していた

 

こちらの店は、とっくの昔に廃業して雑貨屋のような店が入っていた記憶があるのだが、その店も廃業してしまったようだ

 

 

しかし、この看板建築や出桁造りの宝庫だった駅前通りも、近年になって、かなり古い建物が消失してしまった

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの「まつばや」に注目

 

一見ありがちなごく普通の看板建築であるが、隣の「喜久屋金物店」とのあいだから、わずかに見える隙間の壁面が、緑色なのがわかるだろうか?

 

そう、こちらの建物は、緑青を吹いた銅板葺きの見事な戦前型の看板建築を、無惨にも変などどめ色で上塗りしてしまったバチ当たりな物件なのだ。ああ、もったいない!

 

 

町屋でも同様の物件を見たが、今すぐこのペンキを強制剥離したくなる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらは、さほど古い建物ではないが、西荻名物(勝手に名物にしてるし)のもじゃ物件である

 

それにしても、偶然とおりかかったおばちゃんの色彩感覚がすごい。ピンクのパンツに、山登りでもしそうなオレンジのリュック、パープルのカート。天晴れとしか言いようがない

 

 

 

 

 

 

 

 

せっかくの出桁造りを、広い面積のテントで完全に覆い隠している建物を見つけた

 

こういった物件は、こんな無意味なモダナイズをせずに、むしろ古民家的なテイストを前面に押し出してリノベーションするのが今風だが、おそらく、そういった価値観が主流になる以前の「古い建物だから恥ずかしい」という価値観の時代に改装されたのだろう

 

 

都内では、そのような旧来の古い建物が恥ずかしいという、前時代的な勘違いしたもったいない物件をたくさん見かける

 

 

 

 

 

 

 

 

などと考察しているうちに、五日市街道に出た。こちらに関しては、古い建物は、ほぼ壊滅したといっても過言ではない

 

僕が高校生のころは、見事な出桁造りの商家が残っていた記憶があるが、すっかり代替わりして、クソつまらない建物ばかりが並び、見所は、ほとんど残っていない

 

 

 

 

 

 

 

 

街道沿いはご覧のように、東京都内のどこにでもある無個性で面白味のない町並みが続く

 

それでも無理やり探してみると……

 

 

 

 

 

 

 

 

1棟だけ、やや古そうな建物があった。現在はコインランドリーのようだ

 

この界隈には、他にはロクな物件がないので、高井戸方面を経由して、五日市街道の起点である高円寺に向かう

 

 

解体されていなければ街道沿いには、何棟かの特選物件が残っているはずだが、西荻の惨状をかんがみると、いささか心許ないことは否めない

 

 

 

 

 

 

 

 

このあたりは、昔からの農家と、昭和の初めごろ関東大震災で都心部から移り住んだお金持ちが多かったが、今ではどこにでもある郊外の住宅地で、さしておもしろくもない風景が続いていた

 

ところが、高井戸方面にしばらくゆくと、左前方に昔からの大きな農家の屋敷林が目に入る。その農家には……

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、よかった。まだ残っていた

 

明らかに戦前に造られたような、こんな見事な物置小屋が残っている

 

 

 

 

 

 

 

 

この物置小屋の前の道路は、今でこそ舗装されているが僕が高校生のころは、まだ砂利道の農道で、この農家の主屋以外ほとんど建物などなく、一面の畑だったことが当時の写真からわかる

 

 

その写真は「続・昭和20年東京地図-周縁のこと-」という本に掲載されている(ちくま文庫版では正続1冊にまとめられカットされているが)。この本には、今は無き看板建築などがたくさん掲載されているので、一読をすすめる

 

以前の記事にて、僕が解体を嘆いていた池上にあった看板建築や風呂屋の写真も掲載されている

 

 

僕が看板建築などの古い建物にハマったきっかけになった本で、高校生のころ書泉グランデで、高校生の小遣いから見ると、清水の舞台から飛び降りるような決心で購入した定価2600円という高い本だった

 

 

この少し先には、大宮前春日神社という神社があり、その脇にも戦前の建物が残っているはず……だ

 

 

 

 

 

 

 

 

この先は、畑のなかを貫いていたかつての五日市街道の面影を、街路樹に見ることができるが、残念ながら古い建物は、ほとんど残っておらずクソつまらないマンションなどのビルに建て替えられてしまっていた

 

こんなファッキンな景色になる以前に、何度も通っているはずなのだが、どのような町並みだったのか、まったく記憶に残っていない

 

 

はたしてお目当ての建物は、残っているのだろうか?

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

 

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五日市街道の戦前物件《杉並区の郊外を歩く》③

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西荻窪駅から看板建築が並ぶ道をまっすぐ南下して五日市街道に。左に曲がって高井戸方面に向かってしばらく歩くと、古い農家の向かい側に、戦前に造られたような物置小屋がある

 

そこから先は、街道沿いに並ぶ巨木に、この街道が伊奈道と呼ばれていた昔日の面影を見ることができる。伊奈は、五日市宿のひとつ手前の宿場のことである

 

 

しかし、並んでいる建物は、新しく建てられたマンションばかりで、あまり楽しい眺めとは言いかねる

 

物置小屋の先には大宮前春日神社がある。江戸初期に、この地に新田を拓いた関村名主の井口八郎右衛門が、新田の安栄を願って建立したものである。その神社の隣には……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような出桁造りの商家が残っている。この建物は「魚鐘」という鮮魚店で、十年ほど前までは、まだ店を開けていた

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の記事にて触れた僕が看板建築や古民家にハマるきっかけとなった「続・昭和二十年東京地図-周縁のこと-」という本に掲載されている「魚鐘」の写真。キャプションはないが平成の初めごろの姿だと思われる

 

 

 

 

 

 

 

 

今はもう商売をやめてしまったようで、軒先に掲げられていた「魚鐘」という大きな看板ははずされ、店舗の部分は面白味のないアルミサッシに変えられてしまっていた

 

かつては店売りもしていたが、店を畳む少し前は、御用聞きだけで商売をしていたようで、店舗の向かって左側のショウケースは、いつも空っぽだった

 

 

駅も商店街もない、このような場所で長年商売が成り立っていたということは、このあたりには多くの口の肥えた住民がいたのだろう

 

しかし、近年になって宅地化がすすみ安っぽい建て売り住宅が増え、本物の味よりも、安直なショッピングモールのファストフードがお好みの客層が、こういった老舗の存在を許容しなくなってしまった

 

 

この先も街道沿いには大きな古木が並んでいるが……

 

 

 

 

 

 

 

 

五日市街道と環八が交差する北高井戸陸橋から先は、そういった街道の風情は、いちじるしく減退して、どこにでもある東京の郊外の景色に変わる

 

 

 

 

 

 

 

 

環八のすぐ先の柳窪で、このような見るからに旧道といった雰囲気の道と交差したあと、ホンダツインカムというホンダ車のチューニングショップの先の成田西で、五日市街道は善福寺川を越える

 

ホンダツインカムは、ホンダ車にDOHCの車がラインナップされていない時期に、DOHC車の再来を願ってつけられたようだ

 

 

しかし、このツインカムという呼称は、ロータスが自社の車の高性能を謳い文句にするために考えられた造語だということは、ほとんど知られていない

 

冷静に考えると、例えばそのエンジンがシングルカムシャフトでも、V型の配列なら、カムシャフトは2本あるわけで、SOHCエンジンでもツインカムという概念は成立してしまうのだ。したがって「ダブル・オーバーヘッド ・カムシャフト」つまりDOHCというのが正しい

 

 

 

 

 

 

 

 

などと、いつものように話が横道に逸れているあいだに、善福寺の緑地を過ぎて、住所が成田西から成田東に変わるあたりから、商店街らしきものがはじまる

 

このあたりに商家が並びだしたのは、かなり昔のことらしく……

 

 

 

 

 

 

 

 

このような戦前の出桁造りの商家が残っている

 

こちらの建物も魚鐘と同様に、すでに廃業してしまったようだが、軒先には「加富山米店」という看板が残されていた

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらの建物は、店舗の部分が悪趣味なアルミサッシに変えられていないところが偉い。見事な貫禄である

 

それにしても、商売をやめて仕舞屋になるとアルミサッシにされてしまう悪弊は、なんとかならないものだろうか

 

 

この加富山米店から先は、徐々に店舗が増えだして商店街の体裁になってくるが、最初に目につくのが……

 

 

 

 

 

 

 

 

この「凸型看板建築」である

 

この看板建築に入居している「鳥一」は、地元で人気の店らしく、このように、いつも客が群がっている。しかし、焼き鳥の店の並びがペットクリニックというのは、皮肉な取り合わせだなあ

 

 

魚鐘があった大宮前とは異なり、このあたりは戦前から店が並んでいたようで、加富山米店のほかにも

 

 

 

 

 

 

 

 

このような戦前型の平屋の看板建築が残されていたが、こちらは残念ながら、入り口が無様なアルミサッシにされてしまっていた

 

 

 

 

 

 

 

 

成田東の商店街は、とくに賑やかではないが、昔の東京の姿をわずかにとどめており、昔から好きな場所のひとつである

 

しかし、久しぶりに訪れてみると、かろうじて雰囲気はとどめていたが古い建物は、かなり少なくなってしまっていた

 

 

 

 

 

 

 

 

以前は、このような看板建築がズラッと並んでいた記憶があるのだが、ほとんどが新しい住宅やマンションに建てかえられてしまっていて落胆は隠せない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも、まだ昔から続いている店が残っていてホッとする。なんだか安心感を覚える風景である

 

このパンとケーキ「好味屋」は、店構えの印象どおりの昔ながらのパン屋である。かつては新宿や吉祥寺などにも支店があり、安くて美味しいので、何度か購入したことがある

 

 

現在は、店舗規模をかなり縮小してしまい、この店しか残っていないようだ

 

 

ここまで来れば高円寺は、もうすぐである

 

 

 

 

 

 

 

 

成田東から高円寺は、あっという間の距離。十数分で青梅街道に出た

 

地下鉄丸ノ内線の新高円寺駅がある青梅街道の、すき家とファミマのあいだが五日市街道の起点である。パル、ルック商店街を抜けて、高円寺駅に着いたころには、あたりがすっかり暗くなっていた

 

 

 

《杉並区の郊外を歩く》おしまい。次回からしばらく東京、横浜を離れ、埼玉県飯能市で、開催された「飯能まつり」の記事を連載する

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

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賑わう飯能ぎんざ商店街・飯能まつり①

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アップしていない東京、横浜の記事(にはなってないけど)の写真がまだ数百枚あるのに、ここで全4回の飯能の記事を掲載する

 

というのも、いつもの町歩き的な記事ではなく「飯能まつり」を撮影したものだからである。こうしたイベントは時期ものなので、順番どおりやってたら「正月を過ぎて祭りって!」などと言われかねないからだ

 

 

しかし、祭りの記事は府中の「くらやみ祭り」を、さんざっぱら掲載したので「またかよ!」という意見も、あながち的外れではないだろう

 

たしかに下町を除く首都圏近郊の大きな祭りは、たいてい御輿よりも山車が練り歩くスタイルなので、似たような写真ばかりになりがちである

 

 

そこで、少し視点をかえて「祭りを行っているひと」よりも「祭りを見ているひと」もしくは祭りの日の“町の雰囲気”に焦点を当てて撮影した

 

 

まずは、かつての繁華街、今はシャッター街まではいかなくても、ちょっと寂しげな飯能ぎんざ商店街の様子から……

 

あっ、そうそう。今回は「祭り」という、とびっきりのライブなので、雰囲気というか熱気が撮りたかったから、ノーファインダーの一発勝負。ブレててもピン甘でも気にしないように

 

 

 

 

 

 

 

 

飯能ぎんざ商店街は、吾野道から分かれて、かつての飯能の中心地である広小路において、再び吾野道に合流している商店街だ

 

この商店街は、飯能がまだ埼玉県西部でもっとも賑やかな繁華街だったころから拓けていた町なので、明治時代から昭和初期まで数々の古い建物が見られ、この「八百良」「加藤ふとん店」も戦前型の看板建築である

 

 

 

 

 

 

 

 

到着したのは午後6時前。町には祭りの熱気が帯電したような空気が漂い、いつもなら閑古鳥が鳴いている時間なのにも関わらず、通行人は引きも切らない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

陽が暮れたばかりで、各地から集まった山車が駅前通りに集まって祭りが最高潮に達するには、まだ2時間ほどあるが、道行くひとたちは、祭りへの期待に浮かれ、寂しげな普段の町とはまるで違った表情を見せていた

 

などと冷静なことを書いてる僕も、ライブ会場のような熱気に、ちょっとテンションが上がっている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飯能在住の漫画家えのあきらに電話して、30分ぐらいしたらテキトーな場所で落ち合うことにして、飯能ぎんざを撮り歩いた

 

やつとの待ち合わせは、だいたいこんなアバウトな感じで、それでもなんとか落ち合えるので、とくに問題はない

 

 

 

 

 

 

 

 

あっ、この看板建築も建物の後ろ側が一気に下がる片流れの戦前型だなあ、と、写真を整理していたときに気がついた

 

 

僕は撮影していると情景としての風景はよく見ているのだが、夢中になりすぎて、店とかそういった細かいものは目に入っていない。というか、風景を構成する一要素としか認識していない

 

だから帰宅後にゆっくり写真を見たり、コメントなどで指摘されて、初めてその店を認識することが多々ある

 

 

この日もカメラを手にしたとたんに、時間の経過とか、どんな店だったとか、そういった雑念は跡形もなく意識から消失した。あとは無意識にシャッターを切るだけだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イタリアンの屋体があって、すごく惹かれるが……

 

僕は撮影しはじめると、ほとんど何も食べないというか、食事するのも忘れてしまう。だから東京のDEEP EASTの取材のときなど、6~7時間何も食べずに歩き回る

 

 

商店街の舗装は、よくある石畳風のものだが、ほのかな暗い雰囲気と暖色系の明かりのおかげで、ヨーロッパの古い町並みを想起させた 

 

 

それにしても、ほとんど意識していないのに、写真に写っているのは、かわいい女の子が多いのはなぜだろう?

 

という話はともかく……

 

 

飯能ぎんざの看板建築でも白眉の建物を撮影しにゆく。その建物は、明治時代に建てられた主屋を、昭和初期ごろ看板建築にリノベーションしたもので、なんと百年近い昔のリノベーションである

 

 

 

 

 

 

 

 

渋い「barbar 吉川」という看板が、この建物の目印である。かねてより唱えている「床屋には良質のレトロ物件が多い」という説の最たる例のひとつだ

 

建物を撮影しようと思っていたのに、これもまた無意識に僕の視神経は、別のtargetにロックオンしていた。どこだかわかるかな?

 

 

 

 

 

 

 

 

そう。このふたりね。「囃子連」のおべべを着ているくせに、この娘らは、1時間ぐらいこの場所で、スマホを見ながらおしゃべりしていた。うーん、まさに現代っ子←死語?

 

 

 

 

 

 

 

 

祭りが本格化する時間に再び訪れてみると、ふたりの少女は当然のようにいなくなっていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洒落た色に再塗装されているが、こちらも戦前型の銅板(?)葺き看板建築だ。2階の窓枠が当時のままというのはよいが、残念なことに廃業してしまっている

 

あれっ、もうシャッターが閉まってる。この「白鳥たばこ店」は、外観は地味な看板建築だけど、店内の雰囲気は戦前の商家のまんまで、すごく素敵なのに……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「山のススメ」というマンガで、主人公がバイトしていた菓子店「すずき」

 

マンガのなかで、主人公がクリスマスイブに店頭で、サンタのコスプレをしてケーキを売るという場面があったが、同じようにバイトらしき女の子が売り子をしていた

 

 

そろそろ飯能ぎんざ商店街の外れに近くなってきた。このすぐ先で商店街は吾野道と合流しており、そこがかつて飯能の中心地だった広小路である

 

明治時代、広小路は入間まで続いていた鉄道馬車の始発駅であった。次回は広小路から繊維会館などの文化財の建物が並ぶ吾野道沿いを撮影するが、あまりの混雑ぶりに、建物はほとんど写せなかったので悪しからず

 

 

あっ、今気がついたけど祭りの記事なのに、祭りのシーンがひとつも出てきてないじゃん!

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

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旧吾野道の屋体と洋館・飯能まつり②

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飯能ぎんざ商店街は、ゆるやかに右に曲がると吾野道と合流しており、そこがかつての飯能の中心地の広小路である

 

広小路との合流地点には、有名な八百屋「八百梅」がある。あっ、今回はシリーズ2回目なので、さすがに祭りのシーンが出てくるよ(少しだけどね)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山車が集まりだす時間が近いのか、商店街を訪れた午後6時前よりもかなりひと通りが増えてきた

 

 

 

 

 

 

 

 

八百梅は、ここしばらく店が開いているところを見たことがなかったが、この日は店が開いていた

 

しかし店内の様子を見ると、飯能ぎんざ商店街の入り口付近にあった看板建築の「八百良」とは違って、商品は並んでおらず、単に宴会場のような雰囲気で、やはり廃業してしまったのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

八百梅の隣も特徴的な戦前型の看板建築の瀬戸物屋だが、この日は瀬戸物ではなく、おでんがメイン商品のようだ

 

 

旧吾野道のほうが屋体の数は多いが、そちらはほとんどテキヤ、つまりプロの屋体なので値段が高い。地元のものは、商店街の店が屋体を開いているこちらの飯能ぎんざで買い物をする

 

吾野道では焼肉屋のカレーがおすすめだ

 

 

 

 

 

 

 

 

早い時間は、町のあちこちに散っていた山車は、午後7時過ぎになると、駅前通りに集合しはじめて、一列に並ぶと祭りはクライマックスを迎える

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それにしても、吾野道はすごい人出だった。普段の飯能もせめてこの半分の人出があればよいのに……

 

 

 

下の写真の背景に、うっすらと写っている建物は、有形文化財の繊維会館の隣にある木造洋館の歯科医院である。ズラリと屋体が並んでしまっているので、建物を撮影することができなかった

 

で、その建物の裏側に回ってみると……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歯科医院の脇の真っ暗な路地には、少女が十人ぐらいたむろしていたが、真っ暗なのでほとんど写っていない

 

軽自動車が停められているのは、こちらも木造洋館の飯能繊維会館。市の有形文化財である。現役で使われている明治時代の洋館だ

 

 

 

 

 

 

 

 

比較的穏やかだった飯能ぎんざ商店街とは異なり、吾野道は、群がる観光客で、撮影するのがひと苦労だった

 

 

 

 

 

 

 

 

たまたま撮影した写真なのだが、画面のセンターには美少女が写っていた(FILAのパーカーの娘ね)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ということで、次回は祭りのメイン会場である駅前通りに移動する

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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いよいよクライマックスに!・飯能まつり③

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この日は「飯能まつり」ということもあり、飯能在住の漫画家の友人えのあきらと待ち合わせをしたが、電話で「じゃあ夕方ごろ行くから、現地でテキトーに」というアバウトな約束しかしていない

 

僕が飯能駅に降り立ったのは、まだ午後6時前であったが、この季節の日没は早く、すでにあたりは薄暗かった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何度も書いているように、かつては埼玉県西部の繁華街として大いに繁栄した飯能は、はっきり言うとじり貧状態

 

昔日の賑わいは、夢のまた夢。古い建物はどんどん解体され、マンションになるのはまだマシなほうで、あちこちに無駄な駐車場(要するに更地)が点在する悲惨な状態である

 

 

駅前通りにあった「まるひろデパート」は、東飯能の駅ビルに新しい店舗を構え、一時期は2店舗体制を敷いていたが、飯能駅前店(埼玉県で最初のデパートだ)は解体されて、平屋のショボい銀行になってしまった

 

以前は、気のきいた古書店(3軒あった)や中古レコード屋などもあったが、そういった文化を感じさせる店も、どんどんなくなってしまい、このままゴーストタウンにならないか心配だ

 

 

などと嘆いているうちに、いよいよ山車が駅前通りに集まりだし、それにつれて観客も駅前通りに集まりはじめた

 

えのしに電話して落ち合ったあと、駅前通りの昭和の雰囲気を残す喫茶店に入った。珈琲館とドトールもあったが、こっちの店のほうが美味いという話しだった

 

 

コーヒーを飲んでだべっていたら、店にたむろしていた常連客らしき一団が、慌ただしく店を出ていったので、そろそろ祭りもクライマックスのようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

店から出ると、町の表情は一変していた。すごい混雑と熱気である

 

こうなると、もう身動きするのも大変だが、府中のくらやみ祭りとは異なり、車道に規制線が張られていないので、こちらのほうが撮影はしやすい

 

 

くらやみ祭りは、本来夜通し開催するものだったが、くだらない規制で早々と終わってしまい、その上歩道から出られないという、祭りの本質から外れた不自由なものになってしまった

 

 

その点こちらの飯能まつりには、そのような馬鹿ばかしい規制がなく、よりプリミティブな祭り本来のスピリットを感じる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山車は、かなりの高さがあり、信号機や標識などを避けつつ、さらにあまり広いとは言いかねる駅前通りですれ違うので、けっこうスリリングである

 

 

 

 

 

 

 

 

いつもの日曜日なら、閑古鳥が鳴いている駅前通りは、人びとの熱気で温度が上がったように感じた。これが祭りのエネルギーというものだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

祭りの参加者は、町内ごとに違う法被を羽織っているが、僕はこの黄色いやつが気に入った。いや、決してかわいい女の子が多かったからというわけではない

 

 

ところで、首都圏近郊のこういった祭りの山車は、あちこちに売り買いされるようで、たとえば江戸時代に八王子横山宿で造られたものを、所沢の御幸町が購入して使う……

 

などということがある。ちなみに、その山車は有形文化財になっている

 

 

それでなくとも山車には、高価な部材や伝統の職人技が惜しみなく注ぎこまれているので、安くても数百万、なかには新車のフェラーリが買えるほど高価なものさえ存在する

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今年の飯能まつりは、4年前に訪れたときよりも、少し観客が散らばっていたようで、身動きがとれたのが意外だった。たしか、あのときは、ちょっと移動するのもひと苦労だったのに、撮影ポジションがとりやすい

 

府中のくらやみ祭りは、それよりさらに混雑がひどく、大國魂神社の参道の前で、群衆に飲み込まれパニックになっている女性を見かけた

 

 

 

 

 

 

 

 

などとのんびり構えていられたのも、山車が駅前通りにズラリと並ぶまでの話だった

 

祭りがクライマックスを迎える時間には、人混みに紛れたくないという、えのしと別れて、人混みをかき分けひとりで撮影して回った

 

 

日高のケーブルテレビが取材に来ていたが、なぜか撮影スタッフがほとんど女性だったのが珍しく思わず撮影した。照明担当のお姉さんが大変そう

 

後ろのビルの2階の窓から録音用のツェッペリン(もふもふがついた集音マイクね)が狙撃銃のように突き出ていた。余談だが、プロのスナイパーは、窓から銃口を出したりしない

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飯能まつりでは、どういうわけか女の子のグループが目立っていた

 

グループじゃなくても、女の子ふたりとか、3人の組み合わせが多いように思えたが、もしかしたら撮影モードに入っているので、脳内CPUが、自動的にカップルや男子を視神経から遮断していたのかもしれない←

 

 

前に書いたとおり、カメラのモニタはOFFにしているので、撮影した写真をその場で確認などしていないから、帰宅後撮影した写真を見ていると、女の子、それもかわいらしい娘を、無意識に脳内CPUが選別しているようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手なんか振ってかわいいなあ。姉妹だろうか? ということで、次回はいよいよクライマックスへ

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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そして祭りは終わった・飯能まつり④+猫

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それにしても、なにがイラつくって、最近のダメブロほどイラっとするものは、なかなかないだろう

 

あれほど僕が苦言を呈しているのに、昨夜もひとのブログを読もうとすると、重くてなかなか読みこまない。おかげで間違ってプルームなんとかって広告に3回もミスタッチしたぞ。まさかそれが狙いじゃないだろうな

 

何度も言ってるが、クソ重い動画広告なんとかしやがれファッキン!

 

 

という前おきはともかく

 

午後8時が近づくと飯能まつりもいよいよクライマックスを迎える

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飯能の駅前通りに集まって来た山車が一直線に並び、祭囃子が高まって山車を取り囲んだ町の人びとが、手に扇子を持って踊りまくる

 

それがどんな踊りかというと、バブル時代を経験しているひとならば、真っ先にジュリアナ東京を想起するような、とにかく扇子をパタパタ振って踊るのだ

 

 

所定のステップが決まったような踊りではなく、それぞれがテンションを上げてゆきながらプリミティブで、シャーマニズムを感じさせるような踊りである。おそらくかつては五穀豊穣の祈り、収穫への感謝などに根差していたのだろう

 

 

 

 

 

 

 

 

前述のとおり、飯能の駅からまっすぐ延びる通りは、さほど広い道ではないので、山車を一直線に並べるのがまた大変な仕事である

 

当たり前だが山車は、それ自体に自走能力がないので、人力でひっぱっている。これをひと言で表現すると要するに小回りが効かないのだ

 

 

そこで、車庫入れの要領で何度も方向を微調整しながら、並べねばならず、指揮を執るひとには、かなりの車庫入れセンスが要求される

 

 

 

 

 

 

 

 

余談だが、知人に運転のセンスがベラボウに凄いやつがいる

 

なにしろヤマハRZの後ろに僕を乗せながら、永福町の駅前通りを120キロで駆け抜け、中杉通りから早稲田通りに出るとき、わざと後輪を滑らせてドリフトしながら曲がる頭のおかしいやつだ

 

 

その男は、大泉学園の自宅から「これからそっちに向かう」と連絡して、飯能の山奥にあるえのしの家まで、60年前のクラシックバイクを走らせ○○分で到着した。平均時速を計算してみると、なんと○○○キロ!

 

いったいどういう鬼神のような走り方をしたら、その時間で到着するのか、考えるのも恐ろしい。平均的なライダーならliterバイクでもその時間で到着するには、命懸けの走りになるはずだ

 

 

そいつは、かなりオッサンになってから自動車免許を取得したのだが、教習所を卒業後間もない時期ですら狭い駐車場に、一度も切り返すことなく車庫入れしていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

などと話が横道に逸れているあいだに、各町内の山車は一直線に並び、クライマックスのはじまりである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このとき、山車の舞台に立つヒョットコやキツネなどの面をかぶった中心人物が、ライブにおけるミュージシャンのごとく観客を煽る

 

各町内の人びとは山車の周りに集まり扇子を振りながら、祭囃子に合いの手を入れそれに応える

 

 

そして、オーディエンスと一体になって会場というか、路上が様々な音響とともに、トランス状態に盛り上がってゆく。その様子はまさにロックの原点のようだ

 

 

駅前の通りが沸騰したような熱気に包まれ祭りは……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やがて終息を迎える。祭りのあとの気分は、盛り上がったライブが終わったときのあの感じとそっくりである

 

充足感と寂しさが等分に身体を充たすあの感じだ

 

 

府中のくらやみ祭りもそうだが、祭りが終われば山車を町内に戻さねばならない

 

近い町ならさほど苦労はないが、えのしに聞いたら、遠い参加者は、隣駅まで、つまり重たい山車を曳きながら、数キロの道のりを行かなければならないのだ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

道の両側が廃墟と化した吾野道を山車がゆく

 

 

まるで祭りが終わる時間に合わせたように、弱い雨が降ってきた

 

 

 

 

 

 

 

 

東飯能の西武線の踏切の手前で、山車はバスとすれ違う

 

このあとどこまで曳いてゆくのか興味があったが、雨も降ってきたことだし、えのしと合流することにして、来た道を引き返した

 

 

 

飯能まつり。おしまい

 

 

 

オマケ

 

 

 

 

せっかく飯能に来たのだから、えのしん家の猫ウーロンさんを撮影した

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウーロンさんは、もう二十歳をだいぶ越えているが、ご覧のように美人さんの猫である(ちょっとお腹が出てるけど)

 

普通の顔を撮ってもつまらないので、お食事中にいきなりカメラを向けたら

 

 

 

 

 

 

 

 

はっ⁉

 

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

 

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いますぐキミの住む町へ

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ーーいますぐキミの住む町へ

 

 

 

 

横浜市南区中村町

 

 

けっこうネタがたまったので久しぶりに猫ブログを……

 

もちろんいつものように「うわぁ、かわいい♥」とか、そうった猫写真は一切ないし、もしかしたら、画面のどこに猫がいるのかわからない可能性すらあるので悪しからず

 

 

なお今回の写真は、取材のついでというか、散策している途中で出会った猫たちなので、とくに解説もつけず淡々と写真だけ並べ、撮影した場所だけ明記した

 

 

 

 

 

 

 

横浜市南区中村町

 

 

 

横浜市港北区日吉本町

 

 

 

川崎市中原区井田杉山町

 

 

 

 

 

 

横浜市南区弘明寺

 

 

 

横浜市南区弘明寺

 

 

 

 

 

 

 

東京都府中市本町

 

 

 

東京都杉並区成田東

 

 

 

 

 

 

 

川崎市中原区木月中ノ町

 

 

 

 

 

 

京都北区王子本町

 

 

 

 

東京都葛飾区四ツ木

 

 

 

 

 

 

 

 

東京都荒川区尾久

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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東京都多摩市関戸

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京都荒川区町屋

 

 

 

 

 

 

 

 

東京都北区十条仲原

 

 

 

 

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ということで、久しぶりの猫写真を上梓してみた。このシリーズは武田花へのオマージュとも言える企画だから、モノクロがお約束なのだけど、グラビアっぽくカラーも入れてみた

 

最後の写真などは色がなければ、何が写っているのか判別不能であろう

 

 

 

普段の記事の写真が、まだ軽く500枚はたまっているので、次の猫記事は、また忘れたころに

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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赤羽岩渕から混沌の町へ《赤羽・十条凸凹紀行》①

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今回から、今までこのブログで取り上げたことがなった東京の「UPPER NORTH SIDE」北区の赤羽、十条界隈を散策する

 

北区赤羽といえば、ドラマ化され5年ほど前にブレイクした清野とおるのエッセイマンガ「東京都北区赤羽」(後に出版社がかわってタイトルに“ウヒョ!”が追加された)で知られた赤羽、そして十条の町がその中心部であろう

 

 

どちらの町も複数のアーケードを擁し、しかも下町テイストの町なので、いかにも僕が好みそうな場所なのに、一度も散策したことがなかった

 

それには理由がある。どちらの町も繁華街として成立した歴史が浅く、大好物の古民家や看板建築に、あまり期待が持てないからだ。もちろん、そのような物件が、まったく存在していないわけではないことは承知している

 

 

しかし、台東区や墨田区などと比較した場合、主としてそのような物件が明らかに多い場所を優先するのが人情というものだ

 

 

 

 

 

 

 

 

まず最初に訪れたのは、地下鉄南北線の赤羽岩渕駅である

 

駅から地上に出ると赤羽の繁華街から微妙に外れた場所で、地下鉄の出口付近には、広い通りにビルがあるだけのつまらない場所だった

 

そこから直感で、こちらが賑やかそうだと思った方向に5分ほど歩くと、徐々に店が目につきはじめ、そのうちの1軒のウィンドウから、招き猫が僕を誘っていた

 

 

ところで、なぜより一般的なJRの赤羽駅ではないかというと、それは単純に赤羽岩渕なら、東横線から直通で行けるからにすぎず深い意味はない

 

招き猫の店から路地に入ると…… 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見るからに垢抜けない「赤羽中央街」という商店街が姿をあらわした

 

商店街の雰囲気は、葛飾区や足立区よりも墨田区あたりの商店街に、少し似た感じである。それにしても、商店街で最初に見つけた店が万年筆の専門店とは、なかなか渋いものがある

 

 

 

 

 

 

 

 

ファサードに戦前型のような凝った装飾(中華どんぶり模様)が施された看板建築があった

 

以前は真面目な店だったような佇まいであるが、現在は「ラブナイト・スポット」という、もう店の名前だけで十分腰が退ける怪しいテナントが入居していた。ラブナイトとは、どんな夜なのだろうか?

 

 

この段階で「ムムッ、赤羽なかなかやるじゃないか」と、期待に胸をふくらますには十分な感触を得て、招き猫にも誘われたし、なんだか楽しいことが起こりそうだ

 

ラブナイト・スポットからさほど歩かないうちに、赤羽の飲食街に足を踏み入れた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこには、もう見るからに昭和30~40年代から何も変わっていないような、DEEPな雰囲気の建物が並んでいた

 

そして、話には聞いていたが、目立っていたのはやはり飲み屋で、これも話に聞いていたとおり、まだお日様は真上なのに、どの店も酔っぱらいで賑わっていた

 

 

意外だったのは、てっきり耳に赤エンピツをはさみ競馬新聞を読んでいたり、ステテコ一丁でふらふらしてるオヤジばかり想像していたら、昼間っから飲み屋で飲んでいたのは、ごく普通の男女が多かったことだろう

 

飲食街、いや、飲み屋街を少し先にすすむと

 

 

 

 

 

 

 

 

さっそく大好物の「一番街 シルクロード」というアーケード商店街に出くわした

 

 

もう、入り口の田舎っぽい雰囲気からして、ここが楽しくないわけがない。期待に胸をふくらませながら、アーケードに入ってみると……

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和っぽさ満点だが、これが意外と親しみやすい雰囲気で、酔っぱらいのオヤジがくだを巻いているような気配は、あまり感じられず、写真の右側には、美女がふたり写りこんでいる

 

なんだ、これなら立石のほうが、よっぽどDEEPだったな。と、奥にすすむと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文具店や写真館、八百屋などのごく普通の店もあるが、入り口とは空気がかわって飲み屋が多くなり、そして、ここもまたまっ昼間から……

 

 

 

 

 

 

 

 

ガンガン飲んでいるやつらばかりで、なかなかカメラを向けることができない。ようやく撮れた酔っぱらいの顔が写っていない写真が、この1枚である

 

 

この写真からもわかるように、あまり怖そうなオヤジは見られず、ここでもごく普通の男女が多数派を占めていた

 

ブログのネタ的には、目付きの怪しい呂律が回らないステテコ一丁のオヤジ怒鳴られたりしたほうが、より美味しいのだが、そういったアクシデントもなく、ちょっと物足りない気分でアーケードをあとにした

 

 

 

 

 

 

 

明らかに廃屋になった建物があった

 

すでに看板が撤去され、2階の窓は跡形もなくなり、半透明のタキロン波板で塞がれているので、近いうちに取り壊されそうな物件である

 

 

「今川焼ダイミマツ」と「ゲーム チャンピォン」という看板が、スペースインベーダーの時代を彷彿とさせた。チャンピオンじゃなくて「チャンピォン」というあたりに、そこはかとないエモーションを感じさせる

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

商店街の中心部は、通りの両側が、ほとんど同じデザインの低層ビルが並び、なんとなくヨーロッパの国が支配していた南方の植民地のような風情だった

 

 

並んでいる店舗も妙に毒々しい色彩が目立ち、ますます香港やマカオな雰囲気を醸し出している

 

僕は首都圏に住んで永いが、こんな雰囲気の町は、今まであまり見たことがない。このアウェイ感は、葛飾区や墨田区では感じたことがなく、やはり赤羽は未知のカントリーだと痛感した

 

 

 

 

 

 

 

 

ここでもまっ昼間から飲んでいるのは、ごく普通の男女で、なぎら健壱や麿赤児みたいなコワモテオヤジがうじゃうじゃいる“酔っぱらいパラダイス”を想像していただけに、かなり拍子抜けしたことは否めない

 

あっ、この「トロ函」って店は、御徒町でも見たけど、どちらが本店なのだろうか?

 

 

じつは今回の散策にはテーマがあり、そのテーマを具体的にすすめるには、駅から離れた場所に行かねばならない

 

したがって、この駅前付近はさっさと終わらせて、次回は駅から離れた場所を散策するつもりが、この周辺だけでも濃厚特盛りで、ちっとも先にすすまなかった

 

 

赤羽恐るべし……続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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一番街のカオスな裏町《赤羽・十条凸凹紀行》②

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今年もクソ暑い夏が終わったと思ったら、なんだかハッキリしない天気が続き、ろくに秋を感じないまま、唐突に冬が来やがって、昨日などはお出かけするのに、マフラーを巻いてしまった

 

常々僕が唱えているように、豊かな日本の四季は崩壊して、二季になりつつあるようだ

 

 

という前おきはともかく……

 

前回チラッと触れたが、わざわざ東京UPPER NORTH SIDEの赤羽岩渕までやってきたのは、確固たる目的があるからだ

 

その目的は、タイトルにこめられているが、駅前飲食街である一番街は、かなりフォトジェニックな佇まいで撮影に夢中になるあまり、すっかり足止めを喰らってしまった

 

 

駅を出ると、なんにもなかった(もちろん比喩的な意味だ)赤羽岩渕と違って赤羽駅の北口は、国鉄……と、言いたくなる佇まいで、コンコースを出てガード沿いに歩くと、すぐに見えてくる一番街の外側は、こんな風景である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ビニールのカラフルな軒先テントがなければ、おそらく昭和30年代とさほど変わらない眺めだと思われる。コインロッカー200円と記された軒先テントの建物は、戦後型だが「十字型看板建築」である

 

その隣が東京近郊でやたらと増殖したインド人が経営していそうなカレー屋なのが、やけに象徴的だった

 

 

現在のように、やたらとインド人経営のカレー屋が増殖したのは、インド人が日本を侵略しているのではなく、悪徳金融業者がインド人にやたらと貸付ているからだ、と何かの本で読んだ

 

その事象はバブルの末期、出稼ぎに来たはずなのに組織に絡めとられ、違法テレカの売人と化した不良イラン人を想起させる。が、正業だけに、こちらのほうが同情に値するだろう

 

 

どうでもいいけど、プラケースに入れられた大量のブドウが気になる

 

 

 

 

 

 

 

 

このような駅前から「一番街」の飲食街に足を踏み入れると、そこは闇市の雰囲気を濃厚に残した飲み屋が蝟集していた

 

雰囲気としては、三軒茶屋の三角地帯と蒲田バーボン通り、あるいは中野ブロードウェイの裏路地と似たような感じだが、まっ昼間なので、あまりひと気がなかった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

狭い路地の奥には、なぜか等身大の金ピカの大黒さま(?)が安置されており、大阪に瞬間移動したような気分にとらわれる

 

下の写真の狭い路地の、バラックじみた建物の2階の部分が連結されているところが、三軒茶屋の三角地帯を連想させた。これって違法建築なんじゃ……

 

 

それにしても魅力的な佇まいで、すっかり目的を忘れて路地裏を徘徊した

 

 

ところで、目的があると書いたが、この一番街の飲食街にも1軒見ておきたかった建物がある。魅力的な路地裏の風景に、そのことを忘れたころ、その物件がいきなり目に飛びこんできた

 

 

 

 

 

 

 

 

看板建築の1階にある「ハトヤ」という昭和な喫茶店である

 

この「ハトヤ」は、純喫茶マニアや、昭和レトロを愛する者ならば知らなければモグリと言ってよいほどの有名な物件であるが、ネットで調べると十年前の情報でもすでに廃業していて、いつ閉店したのかわからない

 

 

 

 

 

 

 

 

それにしても、なんという素敵な佇まいだろうか

 

入り口のドアが斜めになっているところや、ガラスに記された「喫茶ハトヤ」の文字のフォント。そしてなによりも鳩を模したエンブレムがかわいい

 

 

このまま居抜きで外観を変えずレトロな雰囲気のカフェにしたら、けっこう流行ると思うんだけど……

 

 

 

 

 

 

 

 

ハトヤの並びは「明店街」という飲食街である。通りに提灯がぶら下がっているのが和むよね

 

この飲み屋街の入り口にアーチがあるが、トラックが違法駐車していて撮影できなかったファッキン!

 

 

明店街の向かい側の路地も、もちろん飲み屋街である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それにしても赤羽のこの一角は、やけに昭和濃度が高い

 

よく見ると並んでいる店の名前も「赤羽裏路地焼肉 光牛」「居酒屋 近ちゃん」「歌声スナック コタン(枯淡)」「どすこい酒場 てんま」など、妙に気になるものばかりだ

 

とくに歌声スナックなどは、おそらくカラオケスナックなのだろうが、それが“枯淡”というカラオケとは対極にある渋い店名なのが、えらく哲学的である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

DEEPな場所とそうでない場所のはざかいには、東京名代なのに「埼玉屋」という鰻屋があった。凝った造りの建物(これも一種の看板建築?)には、ヒョウタンを象った看板が掲げられていた

 

そういえば一番街では川魚を扱う料理屋を数軒見かけたが、荒川が近いからだろうか?

 

 

こうして2回に分けて散策して、ようやく一番街を紹介したが、この程度の散策では“赤羽の魅力の一端”に触れたにすぎないものと思われる

 

これまでの様子からかんがみて、まだ目的地に向かうのは早急である

 

 

昼過ぎで時間があるから、今度は駅の反対側に回って、志茂方面を見にゆくことにした。そちらには、大きなアーケード商店街がある

 

 

 

*追記

 

この回は、やたらと写真が多いので前後編に分けた

 

 

 

③に続く

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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LALA ガーデンから志茂へ《赤羽・十条凸凹紀行》③

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さて、ここでようやくタイトルについて話そう

 

タイトルにある「凸凹」というのは、赤羽西と十条仲原のあいだにデンと横たわる台地のことである。そう、つまり今回は、この台地のデコボコを見てみよう

 

 

ーーという深淵なテーマがあったわけだ。ところが、そこにたどり着く以前に、赤羽の駅の周囲が面白すぎて、すっかり捕まってしまったというわけだ

 

そこで、どうせ捕まるなら、駅の反対側のアーケード商店街も見てみることにした

 

 

 

 

 

 

 

 

駅の反対側に出ると、昭和40年代で時間が止まったような風景だった赤羽一番街商店街とは、ガラッと雰囲気がかわり、駅の並びにはピル街が続き、そのビル街から広い通りをわたった先に「LALA ガーデン」というアーケード商店街があった

 

まるで葛飾区の京成立石みたいだった一番街の「一番街シルクロード」とは異なり、こちらのアーケードはえらく幅が広く近代的な印象だった。地方都市によくあるパターンだ

 

 

ところが、信号をわたりアーケードに入ってみると……

 

 

 

 

 

 

 

 

なんとなく垢抜けないちょっと寂れた雰囲気の商店街だった。外観は立派だっただけに、じつに意外である

 

写真の色合いがおかしいのは、ホワイトバランスが狂っているのではなく、アーケードの半透明の屋根のせいで、光線が緑色がかっているからだ

 

 

どうやらシャッター街にはなっていないが、路上駐車された大量の自転車と歩いている人間の数が、明らかに合致しておらず、この大量の自転車の持ち主は、どこに消えたのだろうか?

 

今どきは、どこの町もちょっと駐輪するだけで、たちまち自転車が撤去されて、その身代金として安くない金額を要求されるのがデフォルトの設定である

 

 

それなのに、この大量の自転車から類推すると北区は、そのようなギャング顔負けの自転車撤去をしていないから偉い、という見方もできるかもしれない

 

 

 

 

 

 

 

 

一応、サンマルクカフェのような全国チェーンの店もあるが、どちらかというと地元密着型の商店街のようだが、横浜橋のアーケードのように、飲食店とか惣菜屋があまり見あたらないのも意外だった

 

東京北東部の商店街は、三ノ輪橋や鳥越おかず横丁のように、今夜のおかすを求めて、買い物カゴを下げたおばちゃんたちが押し寄せる……というベタなイメージを持っていたからだ

 

 

このアーケードで印象に残ったのは

 

 

 

 

 

 

 

 

今どき珍しい町のCD屋、どうやらそれも演歌専門というのが、いかにも赤羽らしくて微笑ましい

 

店頭のポスターで目立っていたのは、田川寿美(としみ)という歌手のもので、僕は演歌など一切聴かないので知らないが、アイドルみたいなルックスである

 

 

気になって調べてみると、彼女はあまたのアイドルが在籍したことで知られる堀越学園出身で、なんとアメブロをやっていた

 

年齢的にアイドルというには無理があるが、嫁にしたいタイプの女性というか、家庭的な雰囲気に好感が持てる。しかし、プロフィールを調べると、どうやら一児をもうけたあと離婚してバツイチのようで、波乱万丈だなあ……

 

 

もうひとつ気になったのは

 

 

 

 

 

 

 

 

この三角形のブロンズ像だ

 

この画風は、どこかで見た記憶があるのだが、いつどこで見たのか思い出せなかった。ブロンズ像のうしろを、人力セグウェイのようなキックボードに乗った全身ピンクの少女がとおり過ぎていったのが、やけにシュールだった

 

 

いまひとつアーケードが盛り上がらなかったので、その周囲をうろうろしてみると

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここでも日立の特約店に特有のオレンジとホワイトが鮮やかなバードケージ型の看板建築を見つけた。大井町、早稲田に次いで3例目のサンプル採取である

 

アーケードの周囲は、商店街というほど店舗の密度は高くないが、クセの強い物件が散見された

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらも演歌方面に強そうな「スナック雪子」という、どうやらカラオケスナックのようだ

 

それにしても、まるで1970年代の学園紛争のアジ看板のように、びっしりと店頭に貼られたメニューが、サイコじみた雰囲気を演出している

 

 

しかし看板をよく見ると……

 

「決起せよ! 帝国主義粉砕! 革命は近い! 総括!」などという政治的主張は、一切なく「安くてきれいなママの店」「安くておいしい雪子ちゃん」「人気のふあふあ玉子焼」など、思わず腰砕けになりそうなフレーズが連ねられていた

 

これも赤羽クオリティか

 

 

 

 

 

 

 

 

妙に気になるビルがあった。1階のテナントの軒先テントがかわいいので、目に止まったが、よく見るとなんだかいろいろヘンテコな意匠が施されていた

 

 

3階以上は、マンションのようだが、各部屋の窓がユニットのようになっており、外壁から突きだしている。そして、一般的には直線が大多数を占めるベランダの手すりが半円形なので、目がチカチカする

 

さらに屋上に目をやると、屋上の手すりは、なんと斜めになっているではないか。地味なようでいて、妙に凝っているあたりが赤羽クオリティなのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

さらに周囲を散策すると、すごい「もじゃビル」があった

 

どうやら飲食店が入っているようだが、あまりのもじゃっぷりに、どんな建物なのかまったくわからず、単なる緑色のカタマりにしか見えないところがすごい

 

 

周囲の散策もしたことだし、アーケードの続きを見にゆくことにした

 

 

 

 

 

 

 

 

アーケードを抜けても商店街は続くが、あまり賑やかとは言いかねる地味な雰囲気にかわる

 

ここまで来ると、赤羽という文字が消えて「志茂スズラン通り」という名称に変わった。どうやら隣駅の志茂の商圏に入ってしまったようだ

 

 

商店街の雰囲気は、どことなく新井薬師の商店街に似ているが、それよりもひと回り地味で、あちらのように、都会的なお洒落な飲食店は見当たらない

 

昭和の香りこそ漂うが、とくに見るべきものはなさそうである

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

商店街には古い看板建築などもなく、個人的にあまり興味が持てなかったが、おそらく「レストラン ワールド」は美味しい店だという直感が脳裏をよぎる。まあ、準備中だったけど

 

 

横道に曲がると「志茂二會館」という町内会の集会場のような建物があった

 

会館が「會館」と旧字なので、かなり昔から商店街が成立していたことが類推できるが、そのわりには出桁造りや戦前型の建物など一切なく、やはり赤羽は昭和30~40年代に発展を遂げた町だということがわかる

 

 

 

 

 

 

 

 

あまり道草を食っていると、肝心の目的地にたどりつかないので、そろそろ志茂方面の散策を切り上げて、タイトルにある「凸凹」を目指すことにして、僕は志茂スズラン通りをあとにした

 

 

 

ということで、次回はようやく凸凹地帯に入るが、そこで予想だにしていなかった驚くべき町に出会うことになる……続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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赤羽台地の出桁造り商家《赤羽・十条凸凹紀行》④

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赤羽岩淵から赤羽駅の北口にある「一番街シルクロード」というアーケード飲食街を見てから、駅の反対側に回って今度は「LALAガーデン」という第二のアーケードから志茂へ……

 

そして、その周辺も散策し終えたので、いよいよ赤羽西と十条仲原のあいだにデンと横たわる台地に向かうことにした

 

 

今回、わざわざ東京のUPPER EAST SIDEまでやってきた目的地である 

 

 

 

 

 

 

 

 

「LALA ガーデン」の前から見た赤羽駅前の風景はこんな感じ

 

ビルが並びテナントのSoftBankや吉野家などの店舗が目に入る、都内の主要駅のどこにでもある平凡な眺めである

 

 

 

ここから、ぐるっと台地があるほうに向かう

 

 

 

 

 

 

 

 

すると今度は……

 

「邪魔な貧乏人は、さっさと追い出して、こりゃ濡れ手に粟だね。ウッシッシ」と、ほくそ笑む、デベロッパーと結託したクソ政治家とクソ役人の姿が目に浮かぶような“再開発されまくり”の光景が広がる

 

先ほどのありがちな光景に加えて、最近首都圏でお馴染みになった巨大商業施設とタワーマンションが織り成すファッキンな風景だ

 

 

あまりのあからさまな“地上げしちゃいました”的な風景に、ケッ、と唾を吐きながら、すこし先にゆくと

 

 

 

 

 

 

 

 

まるで舞台セットのような見せかけの風景から「これが赤羽だよな」という垢抜けない、しかし落ち着いた町並みが姿をあらわす

 

とはいえ、寂れてシャッター街しているようで、クリーニング屋の他は廃業してしまったような風情である

 

 

あまり見かけなくなった同時プリント店の建物には、なぜかローマ字で「RA RI RU RE RO」という文字が。その下にはsingとsongの文字もあるので、どうやらカラオケ屋だったようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

カラオケ屋の先には、こんなヘンテコな酒屋があった

 

シロウトさんならそのまま見過ごしてしまうだろうが、古民家のベテラン観察者である僕は、この建物のバランスを見て、老舗であることを確信した。やけに広い間口に低い日本家屋の建物……

 

 

脳内で緑の軒先テントをブリキの看板に置き換え、入り口のサッシを木製に、そして主屋を銅板葺きの屋根に変換する。すると、どうみても以前、世田谷や品川や横浜で見かけた……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このような古い商家のバランスそのものである

 

おそらく発展から取り残された横浜の僻地や、なにやらこだわりのありそうな経堂の金魚屋、品川の畳屋などとは異なり、ある程度発展した環境によって、建物の外観をリフォームしたのだろう

 

 

このような地味に古い建物は、僻地にゆくとよく見かけるが、先日、横須賀市内で、町がまるごと戦前のまま残った奇跡のような場所を発見したので、近いうちに公開する予定だ

 

ちなみに、その場所の情報は、どんなにネットを検索しても一切出てこない

 

 

 

 

 

 

 

 

酒屋の斜め前から、赤羽の台地がはじまる

 

この台地は、かなり急峻な地形の上に成り立っており、どこから登ってもほぼ例外なく、できれば雪の日の通行は遠慮したい急な坂道ばかりである

 

 

台地の上に出て、この写真の75度ぐらい右側から平地を見下ろしてみると

 

 

 

 

 

 

 

 

こちらも凄まじい急坂だ。坂道の右側に名前を記したポールがあり、それによるとこの坂道は「三日月坂」というらしい。なかなか風流なネーミングである

 

ところで事前にGoogleマップで地図は見ていたが、台地の上にはポツリポツリとしか店舗のしるしがなかった。したがって、僕の予想では台地上は住宅街で、町としては新しいものだと思いこんでいた

 

 

ところが、驚いたことに……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

住宅街をしばらく歩くと、いきなり昭和な雰囲気満点の商店街(かなり寂れている)があるではないか!

 

これにはビックリしてしまった。というのは、このような急峻な地形の上にある台地は、水利が極端に悪いため、開発されたのは、だいたい戦後になってからのことがほとんどだからだ

 

 

日野の隣駅の豊田駅も日野台地にあるため、江戸時代から町だった平地にある日野市街とは異なり、戦後になって団地が造成されるまでは、ほとんど不毛地帯であった

 

こちらの店舗も戦後型の看板建築なので、驚くにはあたいしない、と思うだろうが、なぜか僕は胸騒ぎを覚えた

 

 

というのも……

 

 

 

 

 

 

 

こんな建物もあったからだ

 

きれにリフォームされているが、戦後のバラックのような安普請ではない、このような形状の平屋の建物は、戦前、昭和初期ごろ多く造られている

 

 

 

 

 

 

 

 

この建物も、かなり古いものだと見受けられる

 

それにしても、洒落た薄いブルーのペンキが剥げ落ちて、なんだかすごいことになっている

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、決定的なのはこの木造二階建ての廃屋である

 

どう見てもずいぶん以前に廃業してしまったようだが、なにか商売をしていたようなこの建物は、墨田区京島で見られるような戦前型の特徴を有していた

 

 

現在は、かなり寂れて更地と廃業した店舗が目立つが、これはもしかして、古くからの商店街だったのでは、という僕の考えは、もはや確信に近い領域に入っていた

 

などと考えていたら、ダメ押し的なな物件を見つけた

 

 

 

 

 

 

 

 

な、なんと出桁造りの仕舞屋ではないか!

 

こちらも京島において、さんざん見かけたものと同じく、廃業して、店舗部分を住宅にリフォームした物件のようだ

 

 

 

 

 

 

 

 

2階部分を見上げると、定番のレリーフが施された銅板葺きの戸袋があった

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、裏側に回ってみると、板張りの上にブリキの波板を張った、こちらも定番の仕様である

 

建物の裏側の物干し台は、これも京島で定番だったアルミ製にされてしまっているが、横のベランダは、木造のまま残されていた

 

 

それにしても、このような古い建物は赤羽の駅前付近には一切見あたらなかったのに、なぜ駅から離れた台地の上にあるのか?

 

気になってGoogleで調べてみると、どうやら大正時代に、この台地に陸軍被服本厰倉庫が移転して、それで町が拓けたらしい。この近くには、昭和3年に小学校も開校している

 

 

それでなくとも、この界隈は明治時代に近衛大隊、陸軍第一師団などが、そして射撃場や兵器補給厰があった軍都である。どうやら軍隊とその関係者を目当てに商売をはじめた者がおり、その後宅地化とともに発展したのではないだろうか

 

 

ということで次回は、さらにこの台地上の商店街を散策する

 

 

 

続く

 

 

 

 

 

 

 

†PIAS†

 

 

 

 

 

 

 

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